ブログを見たようで・・
東京FMさんから出演の依頼をいただき、昨日、収録を済ませました。みらい図鑑という番組ですが、毎週土曜日に5分番組があります。ベジアイスにご興味をいただいたようで、未来に残したいヒト・コト・モノなどを取り上げているようです。編集はあるのですが、2、30分しっかりとベジアイスのことや農業のこと、話ししました。ベジアイスをはじめて、10年目ですが、ようやく時代がついてきた気がします。若さゆえの粗削りな自分ではありましたが、ベジアイスを通じて、いろんな出会いがありました。改めて月の流れと僕らの思いを確認することもできました。東京FMさんもよく僕らを見つけてくれました。今後ともよろしくお願いいたします。ちなみに7月4日土曜日、13時55分から14時まで。この日に取り上げられます。感謝しかございません。
やはり気になるもので・・・
久しぶりに農業簿記関連の書籍を手に入れた。なかなかレアな書籍と思う。この書籍は、全国の農家の記録や帳表をまとめており、貴重な資料と言える。時々、日本の古本屋 で見るようにしており、やはり農業会計はこれからも何等かでかかわっていく分野であろう。それにしても、農業会計は独立した分野としては弱い。大学の公募をみても、それは感じる。衰退の一途である。博士号で一区切りした分野でもあるが、いったん少し離れることで違う目も出てくるかもしれない。ぼちぼち再稼働も必要であろうと思う今日この頃。
| 著者 : 中央経済社 発売日 : 2014-01-29 |
知識のアップデート
農業の税理士と言えば、森剛一先生が思い浮かぶが、この本も10年ぶりの改定になるようだ。前回のも持っているが、内容はかなり変わった気がする。今回は消費税の改正も大きいが、2階建ての法人化を突っ込んでいる。前回も書かれているが、そこまではと僕も思っていたが、具体的にこの策は考えていかないといけなくなるように思う。やはり農業補助金が減り、米価も低くなっている(コロナの影響で米価は高くなると予想しているが・・)。とすると、集落営農法人も生き残りをかける必要がある。ただし、制度もあるが、やはり「ヒト」の問題、担い手不足の解消をどうするのかにある。農業に未来があるのかないのか、今のような国難時にはやはり食料を自国で100%確保できる。自給率を上げること。もう少し本腰を入れるべきだろう。話は戻すと、集落営農法人の関係者には、読んだほうがいい必読書。僕も結構参考になった。
インターネットの力
約15年ぶりに電話をいただいたが、インターネットをみて、講演をして欲しいとの依頼があった。こんなことを今しているんですねと言われたが、確かに15年前の僕からは想像もつかない領域に僕の活動範囲が広がっている。中身はアフターコロナを見据えて、農と食の最前線を語るといったものだが、ありがたく受諾することにした。昔話もたくさんした。時に流れは早いものだ。僕も40代にもなっているし、まだ20代の駆け出しで出会っているんだから、面白いものである。今年はコロナもあって、大学の講義も呼ばれることはないかもしれないが、年に数回、こうして話ができる機会があれば、僕も活力になる。突然の再会に驚きもあるが、真面目に生きていればチャンスも来る。ピンチはチャンス!頑張ろうと思う。
各所で影響
農業もこうして生産が出ても、コロナで自粛と合っては、体験・観光もできない。だいたい5月の末でいちご狩りの最後になる時期だが、解禁とあって行ってみた。子供も少しずつ外へ出していかなければと思いつつ、かなり気を付けている。もしいちご狩りの予約で密な状態でハウスに入ることになると、やはり今は気持ち悪い。だから予約せず、空いてれば行ってみようということで、子供たちにも内緒にした。幸い、ハウスには我々家族だけであった。かなり農園も配慮している模様で、開園にもかなり気をつかっているようだった。話も聞くと、なかなか大々的に宣伝もできないし、ジレンマが続いている模様。農業にもかなりの影響がある。今回、訪れたのは、廿日市のある田原農園 。甘くておいしかった。体験・観光型を推進した農業の在り方は僕の一押しの考えであったが、コロナ時代、どう農業とも向き合うべきか、生きるすべはと考える。少しあり方も考えるべきかもしれないが、今のところ、名案がない。農業者にも話を聞きながら、自分でできることを考えたい。人と人が会うのが難しいが、できるだけ覗いてみようと思う。
| 著者 : 農山漁村文化協会 発売日 : 1999-04-01 |
古本屋でも漱石
古本屋で最近、見つけた書籍。1965年のものである。漱石好きで学術研究とは一線を画すというようなことを冒頭に書かれている。しかしながら、内容は文学論から作家・作品論、人物に焦点をあてた整理がなされており、興味深く読ませていただいた。文学とは本来、学術的に考察するより、楽しんで読むという行為こそがやはり文学であり、小難しいことをとも思うところもある。しかし、100人読めば、100通りの読みが存在するわけで、いろんな感想や考えを持つといいと思える。研究者が書かれたものではないし、僕が生まれるよりもだいぶ前の書籍であるが、僕にとっては新しい出会いであった。もう漱石も没100年をこえるわけで、いまだに国民的作家で増刷を続けるベストセラーである。過去にわからなかったことが見えてくるのではないかと思い、かなり頭の中を占めるようになってきた。コロナ時代の混沌さがそうさせるのか、眠っていた情熱がそうさせるのか、思案のふける日々である。
漱石に再度向き合うことが必要な時期なのか
この前から漱石が気になって、こころを読み直した。新たに文庫も買い直し、付箋つけ、線を引き。真面目に。いつぶりだろうかと思うが、改めて読むと新鮮だった。先生の両親は当時流行っていた、腸チフスで亡くなっている。コロナ時代と重なることもあるだろう。こころは、高校の教科書で取り上げられる一場面、先生と遺書の下段になるが、その先入観や固定概念が多い気がする。私を主語として読むのがオーソドックスなんだろうが、先生から読むか、Kから読むか、静から読むのかなど、立場によってかなり違う。こころ論争を改めて考え直したいが、何故こう読めるのかなど、考えること、多かった。
構想の絵図
整理整頓してたら、文学をやってた頃の文献がでてきた。漱石の夢十夜の論文をコピーしたもの、一箱。何となく記憶はあるが、図書館にもよくこもっていたと思う。当時は先行研究のまとまった辞典のようなものを紹介され、それを手掛かりにした。漱石の中でも夢十夜を選んだのは、後々苦しめた【夢十夜自体は、小品ではあるが、漱石の総体とも言われる】から、こんなに読まざる得なかったが、メモ書きを見るとある程度、骨子にはなっている気がする。「新聞小説としての夢十夜」をどう向き合うのか。非生産の文学に生産性を求めたが故の苦しみであった。漱石に向き合うには今、必然のような気がする。
本があふれる
結婚をしてから、実家にほっぽり投げてきた本をようやく移動した。箱にして30箱。これだけでも入りきらず、だいぶ処分した。恐ろしいことにまだ自分の家には同じくらいは本はあり、これをどうするのか、もう入らないし、ひとまず住まいに置いておくことにはなろうが、それにしても多い。写真は漱石の研究書。農業会計で博士を取得したが、やはり研究者をやるのなら、最後は文学をやりたい。ただもう少し自分の中で社会科学でやり残したことがあり、それをきちんと区切りをつけてからになると思う。それまではやはり封印。少しは文学研究書も読むが、やはり日常で研究した人にはかなわないだろう。だから楽しめばいい。漱石研究だけで300冊はある。コロナ時代、文学が与えるものは大きい気がする。書斎はなかなかいいものだ。ここで寝泊まりできるようになれば、さらにいいとは思うが・・・。
近代の相克
かつて在京時に、教えを請うていた小森陽一先生。東大ではなかったが、いろんなところに講義をされていたので、僕はよく授業を聞かせてもらった。東京から離れる時に、食事に誘ってくださった。今の閉塞感と気分転換に文学でもと思ったところ、やはり小森陽一先生のことが思い浮かんだ。たまたまYOUTUBEで最終講義がUPされていたので、視聴した。もう退官したのかという時の流れと、当時と同じ切れ味ある講義だった。人を引き込む講義に魅了され、また同じテクストを読んで、なぜこうも「読み」が違うのか。確かに100人読めば、100通りの答えがあると思うが、僕の頭脳ではそこへたどり着かない。それにしても、僕に影響を与えている・与え続けている先生であることは間違いない。何かと忙しくて、最終講義(退官)は気づきもしなかった。それももう一年前の話だった。是非、参加したかったなと思う後悔もある。何かこの閉塞感、近代の相克を向き合っているような気分で、文学に心の救いがあるのではないかと思っている。どこかでまた講義を聞きたいものだ。そして、僕も教壇に立つときは、分野は違えど、このような講義をしたいと思う。