松山にて
松山は何度か訪れているが、意外にも松山城は行ったことがなかった。現存の天守閣として知られるが、なかなか立派な城であった。この時期なので、ロープウェイも家族のみ。密にならないように、配慮があった。また観光客も極めて少なくゆったりと過ごすことができた。別研という大学院時代の有志で年に一度、国内旅行はするのだが、その旅行は城というのは一つのスポットになっているので、城があると気になるもの。息子も日本史に興味を持ちだし、城めぐりは好きなようだ。愛媛県には、宇和島城も現存天守閣がある。僕は一度行ったことがあるが、またの機会に連れて行ってもいいのではないかと思うものだ。
怒ることが多い
コロナのおかげでイライラしていることが多いが、それにしても僕の周辺ではカツンとくることがしばしば。僕も爆発することが多くなった。我慢しなければいけないのだが、そのストッパーがきかないこともあり、ちょっと冷静にならないとと思っている。自分の言い分がすべて通るとは思っていないが、自分が動こうとするとそれを咎める行動、あるいは否定のみでのアクションが多い気がする。否定は代案が欲しいし、待て待てのステイのみではイライラが増幅するばかりだ。あれこれと動いていかないと、物事が進んでいかないので、動きたいが、自分が動くだけで事が解決はしない。解決する問題もあるが、相手がある場合が多いわけで、それいかんというときもある。ダブルバインドの状況か、それにしても何だかな・・・、停滞感。この重苦しい空気を早く変えたいものだ。
職業選択の自由
職業の選び方はほんと考え物である。自分自身もそうだが、向いていないのにその職業をやっている。そんな人が多いのではないだろうか。教師に向いていないのに、やっている。周りが不幸になっているのに、それに気づかずやるといったように。大方、人生も半分になるとそんなことを考えることがある。この前、ある人に質問されたが、いろいろやられてますが、どの職業がいいですかという質問。迷わず露天商と答えていた。インテリにももうなれない、有名企業で活躍することももうない(できない)。雑踏の中で生きていくしかないものである。職業についてはよく考える。どの仕事につけば、やりがいがあるのか。そして人も幸せにできるのか、人それぞれ適職はある。果たして僕はどうだろう。自分のことは自分でわからないというのが答えだろうか。
職業についても考える
コロナ社会になってから、よく聞かれる。これから何がいいんかね・・・と。何がいいかねとは、職業、ビジネスのことで、今、やっている仕事への不安から新たな展開をみんな模索している。正直、僕もさっぱりわからないが、そもそもAIやITという流れがあって、これが一層加速することになる。加速し、衰退する事業も、なくなる事業も、これから期待される事業も出てくる。僕が平生やっている会計の仕事は正直、衰退、なくなるとは思わないが、かなりの人が失業へ向かうと思う。これからどう生きるのか、職業も考えもの、公務員が最強なのか?僕も知見のある方に聞きたいものだ。
客観的数字
昨日のコロナ感染者情報。テレビでUPされたものをぱじゃっと保存したが、さすがにもう動いてもいいと思っている。第二波や第三波が来るかもしれないが、来ないかもしれない(たぶん来ると思うが・・・)。人口の割合から考えても、38 人(昨日の情報)はかなり少ない。インフルエンザの感染でもゼロにはならない。ゆるみとかいうが、ゆるみではなく、もう完全解禁すべきのような気がする。脆弱な補償で、生活を奪うのもどうか。動かないと仕事にならない。だからそろそろ稼働する。未来のために。
苦い思いで
世の中ではマスクが必須となった。マスクをしていない人の方が珍しい。この頃はドラックストアでもスーパーでも並ぶようになった。平時のときよりは未だ価格は高いが、流通しだしたのは間違いないだろう。路上で「マスクあります」とプラカードを持って、販売をしていた事業者がいるが、あれを見ると苦々しい。需要と供給があるのはわかるので、それはいいのだが、大人が3,4人もいて、販売する。仮に時給を900円とすると、8時間で7200円。4人だと、28,800円。それ以上に利益が出るということである。マスクとか、今それで大儲けを狙うものなのか、疑問がある。ほどほどの利益じゃないことがわかる。未だ販売している事業者もいる。閉店セールという。仕入れすぎなんだろうが、苦い思いしかない。あれを見ると、僕はどうしてもつらいのだ。
お茶をする
お茶飲み友達。こういう人がいるといいそうだ。しかも異性で年齢が近い人。今日、そんな話を聞いた。ほんとにお酒を飲んだり遊んだりする仲ではなく、ただお茶をしてだべる。それがいいらしい。いる人の話を聞くと、めんどくさくないそうだ。男女関係になると面倒、酒を飲みに行くと負担。お金もかからないし、歳が近いと話が合う、それ以上もそれ以下もない、そんな関係。残念ながら僕にはそういう人がいないから、それがどうのこうのはわからないが、たまにお茶をするってのはいいかもしれないと思う。僕に趣味でもあれば、趣味仲間という中であれば幸いだが、趣味に生産性を求める悪い癖。つまり、ビジネス脳というか、なんだかね・・・。お茶飲み友達、いればいいのかもと思うお話だった。
各所で影響
農業もこうして生産が出ても、コロナで自粛と合っては、体験・観光もできない。だいたい5月の末でいちご狩りの最後になる時期だが、解禁とあって行ってみた。子供も少しずつ外へ出していかなければと思いつつ、かなり気を付けている。もしいちご狩りの予約で密な状態でハウスに入ることになると、やはり今は気持ち悪い。だから予約せず、空いてれば行ってみようということで、子供たちにも内緒にした。幸い、ハウスには我々家族だけであった。かなり農園も配慮している模様で、開園にもかなり気をつかっているようだった。話も聞くと、なかなか大々的に宣伝もできないし、ジレンマが続いている模様。農業にもかなりの影響がある。今回、訪れたのは、廿日市のある田原農園 。甘くておいしかった。体験・観光型を推進した農業の在り方は僕の一押しの考えであったが、コロナ時代、どう農業とも向き合うべきか、生きるすべはと考える。少しあり方も考えるべきかもしれないが、今のところ、名案がない。農業者にも話を聞きながら、自分でできることを考えたい。人と人が会うのが難しいが、できるだけ覗いてみようと思う。
| 著者 : 農山漁村文化協会 発売日 : 1999-04-01 |
学業を続けるのかやめざる得ないのか
大学などコロナで急激に収入がなくなったなど、学費を払えないので、学校を辞めざる得ない人(そうしようとしている人)が2割はいるという。政府の支援策はあくまで、学業を続けるという前提の支援で、奨学金など「あとでそのお金を支払っていく」というものである。たとえば、今、学校をやめて、一時退学をしても、復学を認める(これはいつでもできるようにすればいい)というような向きではない。納入した学費を返還(すべてとはいかないにせよ)して、次のステップを踏めるようにするのも考えてもいいのではないか。裏読みすると、今回の政府案は大学など学校経営を守るためのものであって、学生支援ではない。そもそも学校に通うことは贅沢な行為であり、一応は義務教育までは、出来るようになっている。4年間のファイナンスをもって、学校経営を加味するならば、方程式が乱れることにもなろうが、今は平時ではない。今、学校を続けられないという人への手当ても考えたらどうか。続けることが美しいという議論はもうやめにしないか。いま・ここという時間は帰ってこない。でも、勉強はいつでも始められる。人生の体制を再整備にも目を向けてほしいものだ。
電卓にも操作の仕方がある
昔、電卓を使い始めたころ、いや会計の仕事に携わるようになってから、サッカー選手がサッカーボールとともにするように、電卓は常に横にいる。電卓にもカシオ製とシャープ製で若干使い方が違うのだが、ひょんなことで復習をした。たくさんボタンがあり、機能があるが、ああなるほどねということもあった。何でも宝の持ち腐れってことが多い。機会がなければ、向き合わないことは、その時々でしないといつまでもしないかもしれない。