文学とは何か。
ほんと進まない漱石再読、文学論。凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要すと始まる一文が有名である(ちなみにFとは認識すること、fとは認識に伴って生じる情緒であるという)が、文学の内容について、深く考察された論。下巻に「間隔論」と「意識の推移」にかなり興味を持って読んでいた記憶が蘇る。文学論をもし学べるなら、是非、教授いただきたいなと思う。難しいし、深いねと思う。理解にはまだ遠いような気もするが、学びもあったのでひとまずよしとする。少しずつ、読み進める。
ほんと進まない漱石再読、文学論。凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要すと始まる一文が有名である(ちなみにFとは認識すること、fとは認識に伴って生じる情緒であるという)が、文学の内容について、深く考察された論。下巻に「間隔論」と「意識の推移」にかなり興味を持って読んでいた記憶が蘇る。文学論をもし学べるなら、是非、教授いただきたいなと思う。難しいし、深いねと思う。理解にはまだ遠いような気もするが、学びもあったのでひとまずよしとする。少しずつ、読み進める。
最近、出た本で買ってみた。これから読むとする。集落営農法人は研究のキーワードなんで、「集落」というワードには敏感になる。今回、授業もあって、どういうアプローチにしようか思案中だが、やはり大学生向けにいいなって思うようにはしたいしねと。限界集落とか言われる今日、やはり集落のあり方もほんと考える。たとえ移り住んだとしても、密な人間関係、仕事、学校、病院、交通など踏み切るにはなかなか難しい。そんなこんなで人の価値観や生き方が問われる時代に、集落とどう向き合うのか。都会がいいやと言う人もいれば、田舎がいいやという人もいる。少し読んでみます。
この夏、県立広島大学での集中講義をお願いされて、打ち合わせで久しぶりに訪れた。県立広島大学で教鞭をとるのは、6年ぶりになるだろうか。今回はブランド戦略のような講義で、中身を聞くと、面白そうだ。商品が学生に与えられ、それをどうブランドを作っていくのかをグループで学習する形である。その商品の選定と一部講義、講評をすることになる。大学らしいいい内容と思う。あとは学生がどのように取り組んでくれるのか、それが課題であるが、15名の定員を大きく上回り、39名も受講生はいるそうだ。今回、楽しみな仕事をいただいたように思う。
新潟行きの前泊で東京に1日滞在したわけだが、雨が降りしきる中、散歩した。4年ぶりに漱石記念館を訪ねた。文学館や美術館など好きなのだが、なかなか回ることができない。余裕がないのもある。心を豊かにする営みを継続していくべきだなと思うところだ。漱石再読も牛歩で進めている。漱石の軌跡をたどるのは楽しいことだ。なんとか今年、来年で樋口一葉記念館に再度行ってみたい。
今年も単発も講義も頼まれており、中山間地域の農業といった話を今年もする。集落営農法人の会計を主に研究することは、集落営農、中山間地域のことも学ぶ必要があるので、一応、自分のフィールド内と思うが、改めて考えてみると、広範に講義をいろいろさせて頂いている気はする。45歳になってからは、ほんとあれやこれやができないので、絞る必要があるなと感じつつ、求められたものにこたえていくこと、この中で自分のスキルを上げていく地道な活動をするしかないなとも思う。まあそれにしても頭の切替をうまくやらないとパンクしそうだ。
漱石でもマイナーな小説である「坑夫」。なかなか忙しくて読み進められない。島崎藤村の「春』の予定が急遽、ピンチヒッター的にまわってきて、出された小説になるが、-自分が坑夫に就ての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていなんでも分る、と締めくくられており、ルポルタージュの方法をとっている。職業というもの、青年がなぜ坑夫に堕落したかという個人的な事情を青年の事実として、<過去>を物語ることで、<動機の解剖>という記憶や意識を、否が応でも読者が向き合うことを求めている。先ほど取り上げた結語が、夢から覚めたように読者に投げかけているのは、漱石のうまさというのを感じるところである。
確定申告の仕事が忙しくて、ほんと何も出来なかった。フルでエンジンをかけて、論文を書かないといけない。論文として残していかないといけないものもたくさんあるのも承知。いつまで経っても、タスクは減らずである。この数年、論文としては農業の税務に焦点を当てる。ただし、問題意識が違うのかなと思いつつ、また思案の連続である。苦しいことを逃げずにやるしかないんだけど、忙しいので、つい逃げたくなる。それでもやるしかない。この本はコンパクトにまとまっているので、実務家にはいいのではないかと思う。
農地所有的各法人の出資規制緩和の議論の記事を読んだ。農地を所有できる法人の出資割合(議決権)の過半が農業関係者以外が握ることを可能にするといった内容で、この議論をしていくようだ。たとえば、農地所有が外国資本でできるようになると、日本の農業そのものが変わっていくことも予想される。一方で、資金調達が容易になり、企業経営としてはやりやすくなるということもありうる。結局のところ、農家自身が決定しうる体制を担保できるかが課題となるだろう。今後の議論に注目してみたい。
漱石再読、虞美人草を読み直す。新聞小説作家になってからの処女作。失敗作ともいわれる。漱石が気合が入りすぎとも言われるが、僕は味わいの深い作品と思う。人間の生の追求、女性への漱石思想、植物の記述など、いろいろ思うことがある。新聞小説に形式を変えたことで、字数という統御から章の書き出しに非常にこだわりも感じる。改めて漱石に通底する表現として、9章「自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自に動き出すと苦しい矛盾が生じる」という表現があるが、ベイトソンがいうダブルバインドの概念やオクシモロン(撞着語法)を漱石は他の作品でも多用していることを思いだした。新聞小説の読み手(知識人)への投げかけでもあり、導線を感じる作品だなと改めて思った。また合間合間で読むことにしましょう(マストをしないといけないのだが、入るとぐわっといってしまう)。次は坑夫を読む予定。
文学と農業会計の部屋とをわけている。場所も違うのだが、最近、この文学の部屋にいるとすごく落ち着く。追い求めたものが詰まっているし、文学は僕の生きる糧であった。だからこそ辞めてはいけなったのに辞めてしまった。非生産性のものに生産性を負うことで苦しくなったせいだ。昔、中学ないし高校の国語の先生になったらどう?と言われ、教職の免許を取るように、指導教員に言われたが、そのときは一度リセットしたいばかりだった。持っておけばよかったなと今は思うが、時は帰ってこない。そう思うと、人生の道中はいろんなことがわかっているようでわかっていない。そう思う。残りの人生をどう構成するのか、あるようでない時間、生きることにエンジョイできればと思うのだが、しんどいことだらけである。
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