効率的な時間の使い方でもある
子供らがボーリングをしたいと言う。どうも学校でそんな話になったようだ。確かコロナの時に一度連れて行った記憶はあるが、それ以外はボーリングの機会はなかったような気がする。よくよく考えると、室内なんだから雨の日にはボーリングはとても適している。さらに朝にやると割引が多く、メリットは大きい。安く遊ぶことができる。朝早くやると、その後の時間も有効に使える。これはしめたものだと感じたものだ。いろんなことをやっていれば、それなりに素養も増える。そんなことを思う休日の時間であった。
連絡無精の人の対処法
たとえば、電話をする。取れない→折り返すといった流れが通常である(遊びとかでなければ)と思っていたが、あまりにもそれが多くなった。相手がどのような状況かは計り知れないが、即座にという話ではないので、それはできるのではないかと思うもの。そうはないようだ。電話をする、メールで記録を残すといったこともするが、僕と関わりたくないんだろうと思うので、それも辞めていこうと。逆にその相手から連絡があっても、もう折り返しもしないし、受信もしないようにしようと心に決めた。それで悩むのはバカバカしいし、その人は連絡が出来ない人なんだと割り切った方が効率的である。仕事の上でこの件が起こりうることが多くなったので、たぶん僕を馬鹿にしているんだろうなと思うのだ。これはうがったも方かもしれないが、そういうことが多くなり、ストレスでしかなくなっている。すべての人と付き合えるわけではないという事実を正面で受け止めるようにしようと思う今日この頃。
遠くからの来客
4月に引き続き、MBA時代の同期が広島に来たる。連絡があって、お好み焼きをほおばりながら談笑。今回は、僕も参画しはじめた一般社団の方と引き合わせた。たぶん合うだろうなと思って、ご一緒できたが、ずっと笑いの中の真剣さ。なんやねん!って思うだろうが、建設的な会話ができたように思う。一見、繋がりがないようなものでも繋がってくる。今回は親和性の高い話であるが、その時その時で出会いも別れもたくさんあるものである。キーワードは楽しむことだろうか。まあいい夜であったことは間違いない。
退任祝い
いろいろお世話になった方が退職されるとのことで、ご挨拶へ伺った。コロナもあったので、空白の時間も多くなったが、まあ一時期はよく一緒していた印象がある。懐かしい話も今からの話も、現在の話も談笑しながら、会話を楽しんだという感じだ。あれこれいろんなことがあるので、失礼している方も多いと思うが、できるだけ配慮できるようにとは思っている。ちょっと落ち着いたら一杯やろうという話で、今日の続きを楽しみたいと思う。この方ももうそんな歳かと思うと時の早さを感じざるを得ない。
忙しいときに忙しく重なる
野球を見に行っている場合ではない。とかくあれやこれや忙しいときに輪をかけて事が起こる。人生ってそんなものと片付ければそうかもしれないが、そればっかりではない。まあいろいろ。終われば繁華街へという運びで遅くなるのだが、たまには(僕はたまにはではない気もする)である。たまにはいうのは、たまにしか会わない人と行くので、たまにはなのであり、たまにしか出ない人はたまにはを味わいたいわけである。言っても仕方ないが・・・。さすがに歳をとってきているので、次の日は堪える。ほどほどにもしておかないと思う50歳近い僕。
いつも衝突する
子どものゲーム、ipadなどのやりすぎでいつも口論になる。夢中になるのもわからなくないが、明らかにやりすぎ。いつも注意することになるが、ほんと勉強をしない。しないといえば、御幣がある。わずかだけするという感じで、ほんと先行きを重んじる。もっと本を読むなどの活字に触れるなどやってほしいと思うだが、ゲームなどを優先される。これ異常ですよ。本を読めと言われれば、アニメ。アニメも悪いわけではないが、そればかりではよくない。自分の子どもだけに諦めきれないところもあり、情けなくもなる。いつもゲームを捨てる論争になる。百害あって一利なし。他の家はどうなんだろうと思うが、昔から言うように、うちはうち、よそはよそである。
ふっかけているわけではない
なんか酒を飲みに行こうという人が多く、何個かは断ってもモグラのように新しくお話が出てくる。なぜそんなに飲みたいのかと思うのだが、飲みたいんだろうね・・・。まあそんなこんなで飲みの席は多いですよ。まことに。出ないと先細り感はあるので、たまには思うが、どうも億劫でねというのが所感。そんなこんなです。思うにどうも何かを動かそうとしている人、たまには接点を持ちたいと考える人、行きずりのような人、まちまち。いずれにしても6月戦線は忙しそうだ。
お金の勉強
息子と株式投資の話をしたが、やってみるものいいね!と珍しく息子が乗り気である。好奇心は旺盛である方なので、こういう面はしっかり伸ばしたいと思う。なにせ僕の子である。小さく差育ってはいけない。あれやこれや考えるが、やらせてみるのが一番いい。案ずるより産むがやすし。どう勉強するのかというのもあるので、その辺の進め方は考えるにしても、とてもいいことなのではないかと思うのだ。お金の教育は2022年度から教育面でも強化する方法で進んでいるが、実際は教える人がいないのも現実か。いるけれども、学校現場には入っていかないのだろうと思うので、ここは親の出番かとも思いつつ、楽しみになってきたというのが僕の所感である。
徐々に
モノは使いようとも思うが、最近見た記事でデジタル終活たるものを読んだ。今の時代。個人でSNSをしていることもあり、残された者はそのすべてを知り得ない。その整理を生きているうちにしていくというものだ。SNSをやることは情報も入ってくるのもあるが、それを知ることでリアルで会っていないのに会っているような感覚もあるし、それがよしとする人もいる。僕は新鮮味に欠けることもあるので、これは辞めていった方が幸せな気がしているので、どこかの区切りを持つことも必要ではないかと思う。このブログもそう。まだ50歳手前で早いだろうと言われるが、時が経過するのは早いので、まずはフェイスブックから卒業を図りたいと思っている。それにしても、デジタル終活。これ結構、大切なんではないかと改めて思う。
好奇心にこたえる
娘がキャンプに興味があるらしい。テントで一夜を過ごすという体験。僕があまり好きではないので、なかなか達成はしないが、子供たちだけでそうした体験をさせてくれるところがあるようで、行ってみるようだ。知らない人と過ごすことも大切な営みではないかと思うし、たまにはいいのではないかと思う。一緒にご飯を作ったり、いろんな作業を共にしたり、いい経験になると思う。うちの子どもはどこかチャレンジングなところがあり、時々突飛なことを言う。子供に一つずつ答えながら、成長を見守りたいと思う。