自分の人生は自分で主導権を持つ
息子が高校から早々と東京の学校に進学したいと言うので、学校訪問をしてきた。小学校5年生にもなるので、一緒に遠くに出かけても負担はそうはない。息子に関しては変わったやつだが、自分の進路ややりたいことを自分で発信してくるし、それに何とか親としても応えたいと思う。子育てで特に気を配っていることは、体験を通じて、自分の頭で考える。その点はすごく考えている。今回の上京はその意味で成長を感じるものであった。親としていい勉強にもなった。せっかくなので、ベルーナドーム(西武ドーム)も寄ってきた。カープ完勝!ナイスゲーム!、これが目的ではなかったが、所沢はそうはいかないだろうから、これもいい経験だと思ってほしいのだが・・・・。
つまみ出せ!
酒どころの東広島には意外に酒のあてになるお土産がない。これは道の駅がこの7月に開店するにあたり、もう一度地域ブランドを見直してみた。そこでアイデアが浮かんだものがこの日本酒につけた珍味である。その名も「つまみ出せ!」。酒ばかり飲んでいると、家からつまみ出すぞ!、はい、つまみ出せというダジャレのような商品名であるが、これはこれでいいのではないか。そんなこんなの商品であるが、まあどう動いていくのかはこれからである。楽しみに動向を見守りたい。
これからの祭り
広島ではこの時期、とうかさんというお祭りがあり、広島で大きなイベントであるが、コロナもあり、3年ぶりの開催となった。歩行者天国や露店出店の縮小など、コロナ対策を講じた上での開催となっているようだが、イベントがない分、爆発した感じ。コロナの宿敵の密を作り出し、逆効果になっているような気がする。地域活性化も理解はできるが、もうイベントはやると決めたら、コロナ前のようにやらないと逆に人流は止められないし、人が滞留する。その意味で、様々な意見はあろうが、やるならやる、やらないならやらないとしないと逆効果である。にぎやかな雰囲気は味わえたが、露店に人が並びすぎて、物も買えなかった。祭りは今度、運営を考えるべきだなと感じた。
変わりゆく場所
天満屋さんには長らくお世話になり、今月で緑井店もなくなるので、一抹の寂しさもある。アルパークにもかつて天満屋があった場所である。そのあとに入った無印良品の店舗が何かと話題なので、少し覗いてみた。無印良品に目新しさはないのだが、圧倒的な商品アイテムの多さを見たときに、これは戦略の違いをまざまざと見せつけられた気がした。売り場に商品を取り扱ってくれる=売れるとは違うわけで、これは大変なことだなと思わざる得ない。ポジショニングのあり方を考えるいい契機となった。いろいろゆっくり見れたので、楽しい時間だった。
昔話の甘い罠
歳をとると、昔の武勇伝を語りたくなるのか。この点は気をついていかなければいけないことだが、そんなシーンと遭遇した。過去の栄光にすがり、今の自分が形骸化している状況。本人はそれに気づかず、生きている。裸の王様である。それでも言わないと、自分のプライドが担保できない。負のスパイラルである。もし自分が充実しない日々を過ごすことになれば、老いたときにそうなるかもしれないということを真正面から受け止めながら、明日の自分かもしれないと思うと、背筋がぞっとした思いがした。
子どもとの休日
子守りというのももうそろそろ終わりが見えてきた。同級生たちと遊んだりして、親からは離れていく。こういうかけがえのない時間はもう少しで終わるのかと思うと一抹の寂しさはある。兄弟と言えども、大人になり、各家庭を持つと会うことも少なくなる。僕のように、兄弟とも同じ職場という恵まれた人も少ないと思う。僕が考える「子供のため」と子どもが望む「自分のため」という違いはどうしてもあるように思う。なんか遠目から子供たちが遊んでいるときに殊更、思うことが多いのだ。子供がいる人はこの時間をぜひ大切にしてほしいと思うところだ。
動いてみることでわかること
今月はとかくあちこち行ったが、ウィズコロナなのか、人の動きは間違いなく活発になっている。そんな中で観光地を巡りに巡ったが、やはり地方自治体が本腰を入れないと、観光は難しいと思える。たとえば、写真にある倉敷。倉敷と竹原を比べて、範囲とかはあるが、集まる中身が倉敷にはある。竹原(町並み保存地区)は資源があるが、もったいない感じもする。越後湯沢と西条(東広島)、もし日本酒ミュージアムのようなものがあれば、西条も集客があるかもしれないとか。越後湯沢はぽんしゅ館とか…。いろんなことを張り巡らせた。歳をとってしまったので、もうあれやこれやと出来ない。出来ないというより、絞っていく作業がいる年齢になったように思う。そう思うと、こうした地域づくりの取り組みをどうするのか、ほんと考えていく必要あるだろうなと。観光資源の創出、これからコロナ後を見据えて。
5年ぶりの催事
東京から始まったドラえもん展。岡山でやっていると目にして、終わる直前で覗くことができた。ドラえもんには目がないというか、昔から好きである。自然と足が運ぶと言えばそう。なので、5年前に東京で見たのに、やはり時の経過。忘れているのも多くある。感性を磨くことは大切な営みだ。息子と二人でみた催事を、家族で見ることができた。やはりみんな共有の時を増やしたいものだ。
年に一度の旅行
MBA時代の有志、ファイナンスを学んだ仲間と年に一度、日本のどこかに旅行をしている。2006年から続いているが、この2年はコロナで旅行も行けずで、久しぶりの開催となった。3年前に企画した新潟。広島からだと遠い。東京に前泊して、それから一路、新潟へ。なんとJRの切符を忘れるという大失態もして、てんやわんや。まあそんな中の新潟であったが、僕自身、はじめて行った土地。広大な越後平野をみながら、皆さんといろんなところを回った。2日もいると、いろんな話ができるので、旧交も深まるものだ。来年は能登へ。また元気にお会いしたいものだ。
ふと思い出した言葉
引用の織物。ロラン・バルトを思い出したわけだ。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物であるという。模倣と独創。ほんとに独自性は自分にあるのだろうか。引用の織物と検索したら、宮川淳さんの本が出てきた。僕が生まれる1年前に出版している。p117。「なぜ引用なのか。引用について考えること、それは読むことについて考えはじめることだ。読むとはアルケー(原理とか根拠という意味)、一なる全体、《本》へと送りとどけることではない。それは逆に還元不可能な複数性、くりかえしと差異について考えることでだろう」という一節があるが、くりかえしと差異。深く考える。続いて、他社への存在を記しているが、殊更、何か自分が自分であるような、ないようなそんな感覚を感じるときがある。楽しく読ませてもらった。