災害にならなければいいが・・・
雨の日はしょうがいないが、最近の雨は集中豪雨になり、あっという間にシーンが変わってしまう。地面が緩くなっている今、また雨が追加となると、それが加算される。平成30年の豪雨災害の時はあそこまでなるとは思いもせず、流川で宴席。早く帰ってこいと何度も電話があり、しぶしぶ変えることにしたが、普通なら20分で着く帰路も4時間かかり、大ごとであった。そのあとは過去の記憶としてまざまざとある。なので、ほんと皆さん、細心の注意をと思う。地球も人間が好き放題して、環境破壊がどんどん進んでいく。地球にいる構成員は人間だけではないにもかかわらず・・・。
久々に
先月に横須賀に行った際に、ガイドさんがしきりに江田島の話をすることもあって、久しぶりに行ってみようと思い、足を伸ばした。15年くらい前に1度行った記憶があるが、やはり覚えていないものだ。戦争もなんとなくあるような気もして、歴史を学ぶ必要があるように思う。人はおろかである。繰り返してしまう。そんなことを感じるものだ。子供たちといっしょに行ったが、どう感じたか。またゆっくり聞いてみようと思う。
タタカッテいますか?
上半期を考えると、かなり動いたと思う。今は9波とか言う人もいるが、コロナも2類から5類へ。行動制限は伴わないし、マスク着用の義務もない。そういう意味では僕だけではなく、アクティブに皆さん動いたのではないだろうか。動くことの反面、整理というのも今年は重視しているが、その整理がままならない。ほんと進まない。僕の頭にある像へ事が進まないので、イライラもあるし、こうしよう、ああしようとネクストステージを考えるも引き返されるところもある。人生はうまくいかないものだ。上半期は動くこと、再稼働をしたといっていいと思う。皆さん、タタカッテますか?自分との格闘。頑張った自分しか助けてくれない、心にとめて下半期へスタートできるように1日を過ごしたいと思う。
久し振りの宴席で
人の生きざまを見たような気がした宴席であった。僕も劣等感、コンプレックスを抱えていきているが、そんなことを微塵もないだろうと思う人がそんな話をした。他人の芝生はよく見えるのか、そんな思いも交錯しながら、人の生き方を聞くことで、鏡となって自分を見た。過去を振り返ってもそう自慢するようなことはないし、できればこうすればよかったと思うことばかりで、順調に生きてこれなかった自分がある。ただ人並みに追いつこうと思うばかりで、まだそんなレベルには到達していない。少し光が射し始めたのかと思うこともあるが、まだその光は弱く、ライトハウスのように照らしてはくれない。男の舞台に上がれる日を楽しみにと思うことの反面、人から学んだ熱い夜となった。
あぁ~幸せ!
過日であるが、少し一人になる時間を設けた。そこで食べた天然のアユ。絶品である。食べることで幸せを感じる。それにしても、どうも人といることが億劫だと思うことが多くなった。一人でいる時間もこれから増やしながら、浪人していたころのような感じで過ごす時間を増やしたいと思っている。その一環での「逃避」は非常にいい時であった。
親離れも寂しいものだ
3人子供がいるが、親からはだいぶ離れてきた。成長をよしと見ないといけないのだろうが、寂しい限りでこのバランスがとても難しい。アジサイのきれいな時期だから見ようと言うと、長女だけがついてきた。見た方がやはりよかったねとなるのだが、来なかった子供はやはり行けばよかったと思うのかもしれないし、行かなくてよかったと思うのかもしれないし、まちまち。でもきれいなアジサイを見れて、心が和んだ。どうも心のコントロールが今、難しくなっているので、どうすれば自分の気持ちを落ち着かせて生きていけるのかと考えるものだ。花は人を幸せにする、そんな心持をした少しの時間であった。
ランチの時間
よく記すことだが、昼時間の使い方はほんと重要に思う。ぱっぱっとカップラーメンで済まして、読書するとか、じっくり人と話す時間を設けるとか活用の仕方次第で大きく変わると思う。なかでも、人との交流時間に使うのは特に重要と思っている。夜であれば、エンドが見えにくいが、ランチタイムは一定の時間という区切りも見えやすい。ちょっと贅沢しても、夜ほどの価格にはならない。そう考えると、ランチタイムの一息の入れ方は、人生を豊かにするものになるかもしれない。大げさかもしれないが、有限な時間の活用は永遠の僕の課題でもある。
過去?現在?未来?
人に会うのが億劫なことが多く、会っても昔の人と合うケースが多い気がする。新たに会っていこうという野心は薄く、どうも及び腰。そうなると、過去から産む現在、未来なのかと思うこともあるし、過去に引き戻しているだけというようなことも考えることもあるし、行く末がよくわからない。過去と言っても、過去をよく知っているのかどうかはわからずとも考えると、切り開くことも多いのか。まあそれにしても、「守りの自分」になっているような気がしてならない。これもいいのか悪いのか、不安定な時代だから、なおさらふさぎ込んでおきたいと思うこともしばしばである。
判断と決断のサインプレー
年齢を重ねるにつれ、判断、決断が遅くなる気もする。昨日、書いたように守りなのか、そう思うこともある。昔から僕より年上と付き合うことが多いが、殊更、今感じるのはスピード感のなさである。スピード感がなく、あれこれと時がいたずらにすぎる、事柄の理解がされていないといった事案も散見され、振り回されるようなところがある。こうしたことに直面する機会が多い。僕もその予備軍である。年を取るにつれて、「客観視」する自分もいる。遠くに「僕」もいる。そうすると、第三者でいることもあるしと思いつつ。加速度をあげて、動く、判断する、決断する。そうふと思うのである。
歳を重ねるということ
40歳半ばになると、なにかたいぎいと思うことが多くなった。たいぎいというのは、広島弁でめんどくさいといった意味になるが、もともとは大儀がいいから来ている言葉と教えられた気がする。この「たいぎい」という感情。歳を取れば取るほど感じるもので、「たいぎい」ということがどうも後ろ向きに。しいては人生を守りに持って行くような作用でもあり、どうしたものかと思う。コロナで3年、行動制限があった。故に思考、行動ということも変え、自分も変えた。エンジンをかけようにもかけ方を忘れてしまっているのかと思うこともしばしば。まあ困った中年になってしまったものだと思うのだが、何となく同年代は相通じるところはあるのではないかと思うが・・・。