
動機善なりや私心なかりしか
いろんなことがあり、原点に立ち戻る。一時期、稲森和夫氏が主宰する「盛和塾」で経営を学ぶ機会を得た。経営理念をはじめ、多くのことを学んだが、フラッシュバックのように記憶が戻ってきた。自分自身が「純」な気持ちで、物事に向き合っているのか。自分の私利私欲に走っていないのか、本当の願いはという問いかけに対し、「動機善なりや私心なかりしか」というメッセージが強くのしかかる。我に返るときはしっかり帰らないといけないと思い、自分に問いかけて自問自答するが、日常の忙しさにかまけて本質をから離れることもあるのではないか。そんなことを強く思う今日この頃。

明らかに異なる
ラーメンは比較的すきなので、よく食べに行くが、どうも物価高もあって仕入の見直しが悪い方に進んでいると思う。遭えてラーメンの画像にはしないが、「麺」を変えたんだろうなというのが食べてわかることで、美味いなと思わないラーメンを食すことになる。価格は確かに上がっているが、それと伴うように味を変える(いい方向ならいいが)のはご法度であろうと思うのだが・・・・。端的に言えば、麺とスープの調和が悪いのである。これは食べていてがっかり感満載。スープはあまり変わった感じはしないものの、気になって仕方がない。もちろん従来の「あの味」というものを守り、物価高に伴う価格改定しているところもあるが、そうでない店が多くなってきている気がする。皆さんはどう感じるだろうか。

地位に執着しない
今の政治情勢をみても、何か地位に執着し、権力を持ちたがる。そこに執着するから、思考は縛られ、誤った判断枠組で問題をとらえるのではないか。そう思うことが多く、「権力」には魔物があるのかさえ思う。落合博満さんが「周りのように監督の地位に執着していないんだわ」という発言をよく覚えていて、あくまで契約であること、シビアな目を持っていた。僕もこの意見に3賛同しており、その権力のために違う力学が働いたとき、悪知恵が働くだろうにと思うし、そうはしたくない。今回の政治もそう、世の中の権力もそう。本筋を忘れないようにと思いながら、自分にある「志」を振り返ってほしいと思うものである。

政治の話が多い中で
何故、人は結婚するのだろうかと真剣に考えたことがある。僕が出した答えは究極的には子孫を残すこと。これに尽きる。愛があるなら、法律で縛る必要もないだろうが、その論点ではない。ただそれだけである。ただ人は何故、結婚する人の方が多いのだろうかという問いも深く考えた。多くの人が結婚をする、すなわち結婚が人を幸せにするのではないかと思い、自分も考えを変えたわけである。その結果、3人の子どもにも恵まれた。いろいろあるにせよ、まあまあよかったのかなと今は思う。これからはわからない。政治が混とんとしているが、少子化対策はほんとした方がいい。どうもそこまでこの国の政治は本腰が入らない。結局は移民か・・・、外国人問題?結婚とは子孫を残すことと結論付けるのなら、結婚をする人を増やす社会にした方がいいのかも。独身に羨ましさもあるが、逆もあるのだろう。

いろんな視野を!
3人の子どもがいて、まちまちである。長男は長男の、長女は長女の、次女は次女の特徴があり、それぞれ面白さはある。最近、長女は殊更、僕といることが多い。僕もできるだけ応じるようにしているが、その共有する時間と空間の中で、彼女が将来、どう進みたいのか、何がしたいのかという「接点」を探している。この探索により、決めつけないようにと思っているが、ひとまずやろうと思ったことに、真摯に愚直に頑張りぬいてほしいものと思う。その結果、いいも悪いもあるだろうが、頑張りぬかないと見えない世界があるものである。小学校までは正直、成績も興味がない。それより大切と思う学校で学べない「体験」や「経験」を積むことに協力できればと思うところ。子育ての面白さでもあるが・・・。

大げさな移動ではないが・・・
日中に呉に仕事に行く。一度、ランチで行ってみたいと思っていた「いせや」へ。運よくお客さんも少なくてスムーズに入店。次のお客さんで名物のかつ丼はなくなる。ほんとラッキーである。カレーのような感じだが、かつ丼で独特な味、肉じゃがも有名のようなので、追加で。美味い・・・。夜出なくなった分、昼の食事を充実させたい。自分の情報にも喜びにもいろいろあるが、新しいものをインストールして、ギガ数増やさないと、なんか紋切り型の生活になるような気がして。呉は日中に行かないが、奥深い町である。僕の中では呉はマイブームである。

良心的、しかも美味い
一度は行ってみたかった「元祖長浜家」。次から次へお客さんが来る、入れ替わる。さすがの老舗。今どき1杯500円とは良心的である。ラーメンがうまいなと。あんまり手をかけすぎる(→っかけているのかもしれないし、かけているんだろうけど)というか、極力シンプルなものの方が食べ物は美味しい気がする。そういう素朴さのあるラーメンであった。コンビニなど物価高でほんと高いばかりで買おうと思わなくなり、どうせお金をかけるのなら美味いもの、特に長く続いているお店の料理を食べてみたいと思うようになった。福岡に行ったらあちこち行ってみようと思うもの。地理もだいぶ詳しくなった。

キティちゃんイベント
キティちゃんの50周年に際し、「ハローキティ展」。東京、沖縄と終え、福岡へ。ドラえもん展をみたときにたぶんこれはいい催事であると予想。女の子には大人気にキティーちゃんだから、娘も喜ぶに違いないと思い、レッツゴー!期待通りの催事であった。大人気が故、長蛇の列。すごかったな・・・。一回、行ってみるといいと思う、お勧め。娘がいなければ、行くことはなかったろうに。それと同時にいつまで一緒に遊んでくれるのだろうかと思いながら、もう少し「子供」でいてほしいと願ったものである。

ここも美味いと思う
福岡はグルメが楽しい。ほんといろいろ楽しみも多いが、そういえば福岡でそばを食べることないなと思い、ググる。ここはよさそうだと思い、レッツゴー!加辺屋。博多座のそばにあるが、老舗のようだ。うまくお客さんもすいている時間でラッキーである。どうも蕎麦が気になるようになった。暑いから今時期は蕎麦は食べやすいのもあるが、やはりいい店に巡り合うと、喜びは大きい。全国津々浦々。おいしいところはたくさんあるものだなと思いながら楽しいランチを食す。

選挙と絡めて
朽木糞牆(きゅうぼくふんちょう)と読むが、論語にあるようで、僕は知らなかった。腐った木とぼろぼろの壁という意味から、どうにも手のつけようのないさまをいう。とくに、もともと意欲や素質のない者は、手の施しようがないということをたとえていうそうであるが、今の政治と絡めた論評をして記事を読んだ。「国難」の今をみて、国家という建物はボロボロ。柱も壁も朽ちかけている。大黒柱の経済は停滞し、人口減は止まらず、離農や離村も後を絶たない。食料も防衛の安全保障も危機にさらされ、成長が見込めない比喩の中に何を見よう。古典には今に通じる「知」がある。自分の課した課題が終えれば、もう少し学びを深めていきたいと思うのだが、うまく事が進んでいないのも現状である。