スキマ

デジタル終活

徐々に

モノは使いようとも思うが、最近見た記事でデジタル終活たるものを読んだ。今の時代。個人でSNSをしていることもあり、残された者はそのすべてを知り得ない。その整理を生きているうちにしていくというものだ。SNSをやることは情報も入ってくるのもあるが、それを知ることでリアルで会っていないのに会っているような感覚もあるし、それがよしとする人もいる。僕は新鮮味に欠けることもあるので、これは辞めていった方が幸せな気がしているので、どこかの区切りを持つことも必要ではないかと思う。このブログもそう。まだ50歳手前で早いだろうと言われるが、時が経過するのは早いので、まずはフェイスブックから卒業を図りたいと思っている。それにしても、デジタル終活。これ結構、大切なんではないかと改めて思う。

子どもの関心

好奇心にこたえる

娘がキャンプに興味があるらしい。テントで一夜を過ごすという体験。僕があまり好きではないので、なかなか達成はしないが、子供たちだけでそうした体験をさせてくれるところがあるようで、行ってみるようだ。知らない人と過ごすことも大切な営みではないかと思うし、たまにはいいのではないかと思う。一緒にご飯を作ったり、いろんな作業を共にしたり、いい経験になると思う。うちの子どもはどこかチャレンジングなところがあり、時々突飛なことを言う。子供に一つずつ答えながら、成長を見守りたいと思う。

ビジネス構造の頭の働かせ方

頭にある財務の視点

これは職業病もあるであろうが、どうも「仕入」を伴うビジネスの頭の働かせ方には弱い気がする。アイスクリーム屋も長年やっていたが、日ごろの役務の提供をする仕事に従事していると、仕入がないわけで、数字がどう動くはわかっていても、前提が違うことをふと思うことがある。仕入が伴うと、「モノ」に対して付加価値をどうあげていくのかを考えるし、「サービス」であるならば、専門という付加価値である。前者の方が売上高としては高くなりやすいが、利益率と考えると、後者の方が高いわけである。まあそんなことを考えていると、あれこれやっても何でもできるわけではないなと当たり前の帰結にたどり着くことになる。意外にできることが多いようでできないということなのかとも思いつつ・・・。日々雑感。

親の務めか・・・

子供の成長とともに

コロナになってから、運動会も昼までになった。僕の感覚とすれば、シングルマザーなどの配慮もあってそうしたのかと思っていたが、どうやら熱中症対策が主な要因らしい。5月だというのに暑かった。母親が弁当を作って、それを囲みながら家族親戚、近所の方々と食べるといったことはもうない。僕らの頃は酒盛りをしていた大人の記憶があるが、今やれば大変なことだろう。さて、1年に1度くらいしか子供行事にはいかないが、子供の成長を見ることができた。小学生と言えどもみんな大きいなという印象だし、うちの子に限らずみんなよく頑張っていたなと感じた。団体の競技では、練習をたくさんしたんだろうなと思うし、年々、大きくなりできることも増えてきたと思うしと。下の子が小学校卒業までに運動会はあと3回。ほんとに参加するのがあと少しになったなと思った5月の一日。

思考のルート

ロジカルシンキング

不特定多数に説明するときに論理的に説明し、客観的に相手に納得をさせる必要がある。筋道を立てて説明するということ。どうも感覚的な人が多く、話がかみ合わないのを知らんぷりで了承することが、人間生活を円滑化させるのだろうかと思うこともしばしば。困るのはビジネスである。お金が伴うので、それを必須の前提としてほしいのだが、「ワシのつくった料理は抜群にうまい」というような点を強調しがちであるが、実はそこは前提にある暗黙的な了解であって、ここが論点ではない。飲食ならば、技能技術という点を求めているのでもないし。「うまい」という前提の中で、どう数字に落とし込み、事業計画を構築するのかということである。計画であって、約束された成功ではないが、これこそスタートラインに立つことなのだ。それが伝わらないので、諦念しかないのだが、そのカルチャーの基礎的な部分が備わっていないので、たぶん話はずっと噛み合うまい。そんなケースが多く散見してきたが、ことさら最近、目の前にある課題でもある。

健康診断

バリウムのせいで

年に一度の健康診断。採血も嫌い(注射が怖い)、バリウムを飲むと気持ち悪くなるなど、とかく好きではない。何より悪いところが見つかると困るというのもあり、ひいてしまう。まあ仕方ないので、行くのだが・・・。終わると下痢にしないということで、一杯繰り出す。腹が重いのに食べてないから腹が減っているので、もりもり食べる。飲んでも酔わない。腹だけがだんだん重くなるのだ。なんと悪循環なんでしょうと思いながら。久しぶりに中華へ。昼間はつらく、夜は楽しくというところか。さあ日常へ戻りましょう。

年に一度

2024年初観戦

子どもも年に1度くらいはカープに連れて行けと言う。残念ながらカープには家族は興味はないようだ。だから連れていくといっても、僕の趣味のようなことを言われるが、それだけであれば僕一人で行くのだ。子供らに伝わったかどうかわからないが、生まれたところにプロ野球球団がある幸せを知った方がいい。その一つの球団があることで、人がつながり、地域がつながる。盛り上がったり、盛り下がることもあるが、12球団しかないのだから、47都道府県で数えるほどしかないのだから、やはり稀有なんだよということ。県外に住むようになれば、故郷を思い出すときに、カープの存在は大きくなる気がする。まだわからないだろうな・・・。

暮らしぶりを変えていく

夜も少しずつ遠ざかる

昨年の夏から少しずつ人とも交流を少なくして、一人時間をたくさん持つ。このような生き方にシフトしてきているが、それに伴い、夜もだいぶ出なくなった。出れば面白いが、それも回数は減らしてきているが、さらに減らそうと思う。順々にお会いしているが、なかなか相手との予定も合わないので、ペンディングの機会も多い。日常がそれぞれあるんだからそれも仕方がないが、ちょっとずつ静かに「場」を去っていくのも必要になっている時期のようにも思う。やはり真剣に将来のことも考えたり、自分を見直したり、家族のことを考えたりとあれこれ内省する時間もいるし、そうはいってもたまには交流して(以前よりはだいぶ減らして)と、ライフスタイルを変化させていこうかなと思うところ。夜も出れば楽しいけど、楽しいだけじゃあいかんわな。

プライドと見栄

分からないことを分からない、教えてほしいと言おう!

近年の人とのトラブルであるが、突き詰めてみると、「プライドと見栄」ということになろうか。この人にはこうしかできないんだと諦念をもって接さないといけないと後で思うのだが、どうもはき違えているのは、「プライド」と「見栄」である。「プライド」の部分をどうのこうの言っているわけではなく、「見栄」を捨てなさいと言っているのだ。「見栄」をはって、人に良く見せようとするメッキのようなものはすぐはげる。僕もそうならないように。わからないことはわからないと言うし、どんなことでその人がやっていることで僕がやっていないことならば、その人の方がそのことに関しては詳しいのだ。「見栄」は捨てよと思うが、みんな「見栄」だけで生きているのかもしれない。虚無感なのか・・・。日々雑感。

人は会い過ぎてはいけない

SNS時代の人の会い方

SNSの普及はいい側面もあるが、悪い側面もある。いい側面と言えば、なかなかご無沙汰の人とつながることである。もちろんその逆もある。悪い側面と言えば、ずっと監視されているとか、会っても新鮮味に欠けるというところもある。そう考えると、いろんなものを辞めていく時期になってきたなと感じている。やはり歳をとっていくと、人と会いすぎる、とりわけ同じ人の場合はトラブルになりやすい。断りにくくなるのだ。人とは適度な距離が必要であり、一人時間を作り、それを楽しむのもいいのではないか。ここ最近、特に思うことである。SNSでつながっているといっても、実はほとんどつながっていないわけで、実際のリアルは10人いるのだろうかと思うこともある。ということで、ある程度でSNS系は終わりにしてひっそりと生きるのもいいだろう。必要があれば、電話するだろうし・・・・。