お粗末な大学
こんな記事も出ている。退学者続出 というような記事。頑張ってきた受験生は4年間あるいは2年間通う学校であり、多くの時間や労力を犠牲にして頑張ってきたと思う。コロナ・・・、確かにこの問題はあるが、決めた試験の仕組みを簡単に変更していいのか?やりようはないのか?親の立場で考えると、そんな学校に4年間の学費を払いたくない。また行かせたくない。なぜ大学だけ甘えているのか。うちの子供たち、幼稚園、小学校と普通に行っている。大学は多額のお金を徴収し、オンライン。ふざけすぎだ。要は研究がしたいために、授業はなおざりにするだけだ。インテリばかり集まってるんだから、思考せよ!親たちもそろそろ大学に抗議したほうがいいと思う。大学を少しかじる人間としてはとても情けない話である。
事業再構築
3次補正の目玉である事業再構築の補助金。この話は毎日のようにしている気がする。通常のものでも100万円から6000万円の補助が受けられる大型ものである。しかしながら、活用イメージをみると、「思い切った」事業再構築を支援といいながら、内容はそうでもない感じがする。たぶん殺到する案件になると思う。補助金などの申請は、通るに越したことはないが、事業の見直しという点で僕はいいと思っている。ただ経営者が書くべきで、それを専門家が添削する形がいい。人任せではやはり血液にならないからだ。経営環境はさらに厳しくなる。こうした前向きな補助金もぜひ活用をすすめたいと思う。
話題のクラブハウス
すごい勢いでクラブハウスのアプリが広がってきている。これはかなり可能性があると思う。何かやろうと思い準備を始めた。やはり音声は見直されるという僕の考えは正しかったように思う。正直、音声をどう使うのかという点でアプリをはじめ、結構調べてみた。コロナというにはマイナスでとらえがちだが、コロナだからこそこういう展開ができたというシナリオも必要である。そもそも僕の動きも変わってきているし、僕だけではなく周りもそうだろう。価値観、意識もそう。クラブハウスはとかく広がる気がしてならない。新しいことができそうだ。気になる方は調べてみるといい。数か月後にはスタンダードツールになるではないかと思っている。
○○は死にました。
タレントの石橋貴明さんが、人気番組の終焉があり、「とんねるずは死にました」と言われた記事を見た。過去に広島東洋カープの前田智徳選手がアキレス腱を断裂した際に、「前田智徳は死にました」といった発言が重なるようにフィードバックしたが、そういう心境ってのはわかる。僕も自分のことを振り返っても、「岸保宏は死にました」ということも結構ある。それはどんなときか。過去の人と会わない(直接的にも間接的にも)といけない時だ。「死んだ」のだから会う必要もない。たとえば同窓会の類い(これは誘われても一生行かない)などは無駄な時間である。過去が懐かしいとも一切思わない。「死んだ」のだから、ほっておいてほしいし、蒸し返しもしてほしくない。「死んだ」のだ。新しいスタートを切っている人間を邪魔はしない。僕もされたくない。石橋さんや前田さんとは違って、僕には輝かしい過去がない、そこは彼らと違うことだが、新しく生き直している最中に、振り返る必要にない地点に戻る必要はない。僕は過去の人の成功している姿も失敗している姿もみない。遠くで僕は言う、「ほっておいてくれてどうもありがとう!」と。
もう8年が経過している
過去に住んでいる町の選挙に出たことがある。自分自身ではトップ当選するだろうと思っていたが、そう甘くない。落選。たった一人しか落ちない選挙で負けた。今でも選挙に出てくれと言われることがある。河井問題があってから、殊更声が大きくなってきたが、結論的には選挙には出ない。過去のブログでも記載した通り、8年前に審判を受けたので、僕をもっと必要としてくれる場所で、社会貢献はしたいと思っている。選挙に負けたことは今ではよかったように思う。野心もかなりあったが、民意で負けたんだから、民意で選んだ人を支援してあげてほしい。お金をもらった人を支援したのかもしれない。それも自分で投じた1票。これは紛れもない事実である。統一地方選が近づいているが、僕は出ないので公言をしておきたい。すべての候補者に敬意を払う。ぜひ悔いのない戦いをしてほしい、そしてよりよい社会の実現のために、働いていただきたい。
最近の読書
読書をするのもかなり鈍化している。時間がなかなかない。それでも読んでいないことはない。ネギ農家から紹介されたのがこの本。よく売れている書籍のようだ。素人から農家へ転身し、体験をもとに農業と向き合って、農業ビジネスで考えたことを述べられている。表現は違えど、共感することや、こう伝えればより人に伝わるのではないかなと思うことなど、勉強になった。読みやすい本なので、ぜひ手に取ってほしいと思う。6次産業のことも書かれているが、6次産業の違和感は全くその通り。僕もかつて6次産業の支援をしていたが、結局のところ、成功例が少ない。レッドオーシャンの世界には新たな敵がいるものだ。取り組み自体は否定はしないが、かなりの戦略や覚悟など用意すべきだろう。僕には6次産業を支援し、成功させるだけの能力はない。ただ自分の持つ領域や器の中で勝負していくことを考えていこうとする支援、伴走はできると思う。ここに活路があるような気がしてならない。今日の読書から紹介をしておきたい。
時の流れ
早いものである。1年前、博士号の最終面接の日である。前日に大学の図書館で勉強して、望んだ。農大は論文だけを出しただけの学校といえば、そうかもしれないが、1.5か月の一度くらい通っていたので、殊更思い出がある。収穫祭(学園祭)の準備時期に紹介をしていただき、春夏秋冬。数年経過したが、ようやくこぎつけた日。父の死去から事務所の再編からとかく忙しく、てんやわんや。しかもコロナが始まった時期であったし、指導教官の退官など、もう時間がないというギリギリのタイミングであった。去年のこの時期の記憶がとんとない。学術研究もほんと出来ていないし、自分に余裕がなくなっている。時間の使い方の悪さも起因していると思うが、ちょっとずつでもやっていかなければと思うものだ。論文を書かなくなると、書けなくなる。その恐怖はあるが、学術研究でも僕にとって、「残された課題」があるので、それは少なくともクリアしたい。あと学位記を目の前で授与をされてみたい。過去、すべて授与は後日しか経験がない。歳をとって、1度くらいは経験したいイベントかもしれない。コロナも1年以上、続いているのかと改めて思うことでもある。
どうなるコロナ2年目
先日、フラワーフェスティバルのイベント開催をするとの発表があった。宇品の花火大会や宮島の花火大会など、軒並み中止が発表される中、5月にあるイベントを考えると、チャレンジングな決断だと思う。規模はパレードなどは見送るようであるが、果たしてどうなるのか。事を動かさないと始まらないのも事実、しかし、これだけの規模で人が動くとなると、ワクチンなどまだ未整備(準備不足)の中、どうなのかというのは考えるところである。出展者の立場からすると、ビジネスのことも考える。だから出るのか知れないし、これまた微妙である。イベントは早めに出店依頼があるので、そのときの状況が予想できないのもある。そろそろ今年のイベントも話が来る時期だ。周りの方とも相談したい。
物足りなさの一つ
この前、ある人としゃべっていたときに、亡くなった人の話になった。その人は僕をぐいぐい引っ張り、引っ掻き回されている/回しているという関係性であったが、とにかく魅力のある人だった。故人を悪く言うとかよく言うというレベルではなく、こういう人に出会うことがないからだ。とかく面白く生きさせてくれたように思う。僕も灰汁が強いほうの人間だと思うが、僕に刺激を与えてくれる人は少ないように思う。1年に1度あるかないかで、僕自身が動いて会ってみようと思う人が出てくる。その時は積極的に動いてみるが、その積極性は誰しもなく、「刺激」というスパイスがあるかどうか。ただし、会ってみようと動いても、絶えずその人が僕に刺激を与えてくるのかというのは、また別の問題である。やんちゃさも兼ね備えたり、人たらしのようなところがあったり、完璧な人ではなく、粗削りな人間のほうが僕には刺激的なような気がする。とかく物足りない空腹感はどこにあるのか。昨日思う日々雑感。
昨日の放映を経て
TSSテレビ新広島で、廣島農人の取り組みを取り上げてくださった。テレビに出るのは、ほんと久々のことである。コロナ社会になってからは発信を強めているが、さすがに地上波に出るのは戸惑いもあった。周りのみんなが出ようというのに押された感じになったが、結果的には出演したのはよかったのかしれない。これからの反響である。物事には作用と反作用があるので、それによっていい方向にすべてが出るわけではない。このブログのように、地道に継続的に積み重ねることで、「じわっと」と進む、がんぼチャンネルもそうである。地上波だと劇薬的なところもあるので、荒治療になりがちになるのは危惧する点である。ただ今回の放送を通じて、違う展開も少し見えた。「じわっと」と新たな展開をやっていこうと思っている。ああでもないこうでもないと考えて、前に進んでいきたい。