自主勉強
長男に関しては、わからないことを貪欲に調べていく姿勢があり、図書館へ自分で行き、調べるということもしているようなので、僕は役立ちそうで、息子が知らないであろうモノを渡す。そして、息子は自分で読み、いろいろ検討する。今回、この本を思い出して購入してみた。日本国勢図会のジュニア版である。作物がどうの、工業がどうのこうのといろんな統計が書いてある、大人が読んでも十分に勉強になる内容。親が子供に何かを教えるというのはなかなか難しいもので、何かを渡し、ここで話をするというスタンスである。下の子どもにも同じようにしたいが、どうもタイプが違う。しかし、それぞれに学び方はあるので、それに準じればいい。内容がちゃんと頭に入っていなければ意味もないのだから。
日々の雑多に追われるばかりで
ウクライナ情勢を考えると、心が痛み、平和である幸せを感じる一方、この時期が繁忙期であり、とかく忙しいばかり。毎日、目の前のタスクをただただこなすという虚しさ。仕事がある幸せという側面、ぽっかり空いた心のスキマがある。幸せというのは何なのか。抽象的な子のワードの解題はおそらく生きているうちに解けない気がする。それにしても忙しい・・・。一日、完全燃焼で燃え尽きて生きているのは何だろう。
明かりをつけましょ・・・
男兄弟で育ってきた僕としては3月3日ひなまつりは関心のない一日であったが、娘が出来てからは意識が強まった日である。お雛さんを飾るほど大きな家ではないので、小さな人形を飾っているが、それをみると女の子の祭りだなと思う。息子には端午の節句もどうのこうのと言われてしまったが、端午の節句って何かやったっけと思いながら、平凡な時間を過ごしたとさ。おしまい。
疲れているな・・・
職業柄、この時期、忙しいのだが、年々、身体の踏ん張りが効かなくなっている。冗談抜きに加齢というものを感じるし、このままずっとできるようなことでもない。これは殊更感じる。年をとるにつれて、いろいろ楽になる正比例系のシナリオで人生を歩んできたが、そうではなく、年々、忙しくなっている。ブログを書いている暇があるのなら、目の前の仕事をせぇと言われそうだ。仕事を再開しよう。
この感覚はなんだ?
最近、起きたときに曜日を間違えている。今日はああ水曜日中日だと思って、起きると火曜日であったし、先週は木曜日なのに、ああ金曜日だと思って起きたし、勘違いで済むのか、どうなのかと思う。疲れ?ストレス?なんだと思うのだが、危険な信号なのだろうか。逃避なのかわからないが、日々、仕事に追われ、神経が休まらない。そしてとくに今、気になっているのは、ウクライナ情勢。他人ごとではない気がして、今、平和に仕事をしてていいのだろうかという気にさえなる。これも頭から離れない。それにしても、ゆっくりと過ごしたいと思う今日この頃である。少し休みたい。
漱石と改めて向き合う
漱石再読、虞美人草を読み直す。新聞小説作家になってからの処女作。失敗作ともいわれる。漱石が気合が入りすぎとも言われるが、僕は味わいの深い作品と思う。人間の生の追求、女性への漱石思想、植物の記述など、いろいろ思うことがある。新聞小説に形式を変えたことで、字数という統御から章の書き出しに非常にこだわりも感じる。改めて漱石に通底する表現として、9章「自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自に動き出すと苦しい矛盾が生じる」という表現があるが、ベイトソンがいうダブルバインドの概念やオクシモロン(撞着語法)を漱石は他の作品でも多用していることを思いだした。新聞小説の読み手(知識人)への投げかけでもあり、導線を感じる作品だなと改めて思った。また合間合間で読むことにしましょう(マストをしないといけないのだが、入るとぐわっといってしまう)。次は坑夫を読む予定。
久々の瓦そば
動いていないと非常に疲れるような性格。周りにいる人は振り回される。その中心人物にいるのは僕だが、温泉&グルメ。川棚へ行こうと無茶ぶりの計画を立てて、家族でするっと山口へ。2時間程度と勘違いをしており、3時間かかったわけだが、それでも日帰りの旅行気分はやはりいいもの。久しぶりに瓦そばも満喫。いい気分転換になった。どうも忙しいせいで、ストレスがたまりまくる。いろんなことをしつつ、紛らわしているが、やはりうまく転換できていないのかもしれない。そう思いつつ、家族とわいわいやって、共有した空間はいいものだ。明日からまた週明け。あと半月。エナジーチャージだ!
ふと我に返る
忙しい毎日で、これしないといけないというものが多い。だからとにかく仕上げて、量を減らすという意識で進めるが、ミスが増える。そうなると悪循環となる。今日、起きると、日曜日と間違っていた。ようやく休めると思ったが、金曜日であり、一息落ち着いたところで物事を見ていない。そう思うと、ちょっと立ち止まって物事をみないといけないなと思うのだ。急がば回れという言葉がある。まさしくその通り。当たり前を当たり前にできないときこそ危ない。そんな戒めを思う今日である。
いい機会だと位置づけて
小学校で1/2成人式というものがあったそうで、親からお手紙のお返事を書くようになっているらしく、その返事を書きました。パソコン時代になっているので、手書きで書くというのは少なくなりました。若い頃は手紙もよく書きましたが、いつぶりだろうと思うほど前です。息子に手紙というのも照れくささはありますが、10歳という感受性が高い時期に言葉を残すのもいい機会と考えたいと思います。まあまあの枚数になったなと思いつつ、脱稿。
一人だけの空間
文学と農業会計の部屋とをわけている。場所も違うのだが、最近、この文学の部屋にいるとすごく落ち着く。追い求めたものが詰まっているし、文学は僕の生きる糧であった。だからこそ辞めてはいけなったのに辞めてしまった。非生産性のものに生産性を負うことで苦しくなったせいだ。昔、中学ないし高校の国語の先生になったらどう?と言われ、教職の免許を取るように、指導教員に言われたが、そのときは一度リセットしたいばかりだった。持っておけばよかったなと今は思うが、時は帰ってこない。そう思うと、人生の道中はいろんなことがわかっているようでわかっていない。そう思う。残りの人生をどう構成するのか、あるようでない時間、生きることにエンジョイできればと思うのだが、しんどいことだらけである。