つまみ出せ!
酒どころの東広島には意外に酒のあてになるお土産がない。これは道の駅がこの7月に開店するにあたり、もう一度地域ブランドを見直してみた。そこでアイデアが浮かんだものがこの日本酒につけた珍味である。その名も「つまみ出せ!」。酒ばかり飲んでいると、家からつまみ出すぞ!、はい、つまみ出せというダジャレのような商品名であるが、これはこれでいいのではないか。そんなこんなの商品であるが、まあどう動いていくのかはこれからである。楽しみに動向を見守りたい。
酒どころの東広島には意外に酒のあてになるお土産がない。これは道の駅がこの7月に開店するにあたり、もう一度地域ブランドを見直してみた。そこでアイデアが浮かんだものがこの日本酒につけた珍味である。その名も「つまみ出せ!」。酒ばかり飲んでいると、家からつまみ出すぞ!、はい、つまみ出せというダジャレのような商品名であるが、これはこれでいいのではないか。そんなこんなの商品であるが、まあどう動いていくのかはこれからである。楽しみに動向を見守りたい。
昨年の後期の授業以来となったが、中国学園大学へ単発講義。岡山学というオムニバスの1コマで、「中山間地域」をテーマとした内容。思えば、いろんな話をさせていただくようになったなと思うところだ。昨年はオンラインで大変苦戦した。対面はやはりいいものだ。岡山もそうだが、75%が中山間地域となり、様々な問題がある。今回、1コマだからざっとこうだよって話しかできなかったけど、これはこれでと思うところ。やはり教壇でしゃべるのは向いている仕事のように思う。
広島ではこの時期、とうかさんというお祭りがあり、広島で大きなイベントであるが、コロナもあり、3年ぶりの開催となった。歩行者天国や露店出店の縮小など、コロナ対策を講じた上での開催となっているようだが、イベントがない分、爆発した感じ。コロナの宿敵の密を作り出し、逆効果になっているような気がする。地域活性化も理解はできるが、もうイベントはやると決めたら、コロナ前のようにやらないと逆に人流は止められないし、人が滞留する。その意味で、様々な意見はあろうが、やるならやる、やらないならやらないとしないと逆効果である。にぎやかな雰囲気は味わえたが、露店に人が並びすぎて、物も買えなかった。祭りは今度、運営を考えるべきだなと感じた。
天満屋さんには長らくお世話になり、今月で緑井店もなくなるので、一抹の寂しさもある。アルパークにもかつて天満屋があった場所である。そのあとに入った無印良品の店舗が何かと話題なので、少し覗いてみた。無印良品に目新しさはないのだが、圧倒的な商品アイテムの多さを見たときに、これは戦略の違いをまざまざと見せつけられた気がした。売り場に商品を取り扱ってくれる=売れるとは違うわけで、これは大変なことだなと思わざる得ない。ポジショニングのあり方を考えるいい契機となった。いろいろゆっくり見れたので、楽しい時間だった。
歳をとると、昔の武勇伝を語りたくなるのか。この点は気をついていかなければいけないことだが、そんなシーンと遭遇した。過去の栄光にすがり、今の自分が形骸化している状況。本人はそれに気づかず、生きている。裸の王様である。それでも言わないと、自分のプライドが担保できない。負のスパイラルである。もし自分が充実しない日々を過ごすことになれば、老いたときにそうなるかもしれないということを真正面から受け止めながら、明日の自分かもしれないと思うと、背筋がぞっとした思いがした。
まああれやこれや、仕掛もあれば、これから取り組むものもあり、脳が渋滞気味。こうした忙しいと思うひとときに、次を仕込んでおく。この作業が至極、大切な営みと思うが、あれをしないといけない、これをしないといけないといったことを思いつつも、構想をしておかないと、明日はない。そう思いながら、今を生きている。コロナになってからは極端にいえば、オールリセットで物事を見ている。沈んでいるときにしっかりトレーニングを積む。うまく進んでいければと思うが、なかなか自分の思い通りならないのが、世の常である。
この前、酒場で知り合いにあったので、少しの時間、ご一緒に飲んだ。その人は、事業家として成功していると思うが、やはりやることもスケールが違う。故に、何か動く際にお金も全然、カケ方が違うので、一緒にといってもそうは付き合えない。そんな話の道中に、僕が「そんなにお金がないですよ」といったならば、彼は「事業を作ればええんよ」と返してきた。事業は作っていないわけではないが、まあそこまで仕組みができているかどうかは疑問。やはり絶対数の資金が少ないのだろう。人付き合いはお金もかかる。家にいつもいるという形もよくない。たまにはいいと思うが、外の空気を触れないと、新しい発想も出てこない。ただし、読書などやるべき家でのタスクも十分に確保した動きで。まあそんなことで、事業の構成も改めて考えた会話の振り返りである。
子守りというのももうそろそろ終わりが見えてきた。同級生たちと遊んだりして、親からは離れていく。こういうかけがえのない時間はもう少しで終わるのかと思うと一抹の寂しさはある。兄弟と言えども、大人になり、各家庭を持つと会うことも少なくなる。僕のように、兄弟とも同じ職場という恵まれた人も少ないと思う。僕が考える「子供のため」と子どもが望む「自分のため」という違いはどうしてもあるように思う。なんか遠目から子供たちが遊んでいるときに殊更、思うことが多いのだ。子供がいる人はこの時間をぜひ大切にしてほしいと思うところだ。
ほんと進まない漱石再読、文学論。凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要すと始まる一文が有名である(ちなみにFとは認識すること、fとは認識に伴って生じる情緒であるという)が、文学の内容について、深く考察された論。下巻に「間隔論」と「意識の推移」にかなり興味を持って読んでいた記憶が蘇る。文学論をもし学べるなら、是非、教授いただきたいなと思う。難しいし、深いねと思う。理解にはまだ遠いような気もするが、学びもあったのでひとまずよしとする。少しずつ、読み進める。
最近、出た本で買ってみた。これから読むとする。集落営農法人は研究のキーワードなんで、「集落」というワードには敏感になる。今回、授業もあって、どういうアプローチにしようか思案中だが、やはり大学生向けにいいなって思うようにはしたいしねと。限界集落とか言われる今日、やはり集落のあり方もほんと考える。たとえ移り住んだとしても、密な人間関係、仕事、学校、病院、交通など踏み切るにはなかなか難しい。そんなこんなで人の価値観や生き方が問われる時代に、集落とどう向き合うのか。都会がいいやと言う人もいれば、田舎がいいやという人もいる。少し読んでみます。
セミナー・講演会のご依頼は
こちらから受け付けております。