漱石と改めて向き合う
漱石再読、虞美人草を読み直す。新聞小説作家になってからの処女作。失敗作ともいわれる。漱石が気合が入りすぎとも言われるが、僕は味わいの深い作品と思う。人間の生の追求、女性への漱石思想、植物の記述など、いろいろ思うことがある。新聞小説に形式を変えたことで、字数という統御から章の書き出しに非常にこだわりも感じる。改めて漱石に通底する表現として、9章「自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自に動き出すと苦しい矛盾が生じる」という表現があるが、ベイトソンがいうダブルバインドの概念やオクシモロン(撞着語法)を漱石は他の作品でも多用していることを思いだした。新聞小説の読み手(知識人)への投げかけでもあり、導線を感じる作品だなと改めて思った。また合間合間で読むことにしましょう(マストをしないといけないのだが、入るとぐわっといってしまう)。次は坑夫を読む予定。
久々の瓦そば
動いていないと非常に疲れるような性格。周りにいる人は振り回される。その中心人物にいるのは僕だが、温泉&グルメ。川棚へ行こうと無茶ぶりの計画を立てて、家族でするっと山口へ。2時間程度と勘違いをしており、3時間かかったわけだが、それでも日帰りの旅行気分はやはりいいもの。久しぶりに瓦そばも満喫。いい気分転換になった。どうも忙しいせいで、ストレスがたまりまくる。いろんなことをしつつ、紛らわしているが、やはりうまく転換できていないのかもしれない。そう思いつつ、家族とわいわいやって、共有した空間はいいものだ。明日からまた週明け。あと半月。エナジーチャージだ!
ふと我に返る
忙しい毎日で、これしないといけないというものが多い。だからとにかく仕上げて、量を減らすという意識で進めるが、ミスが増える。そうなると悪循環となる。今日、起きると、日曜日と間違っていた。ようやく休めると思ったが、金曜日であり、一息落ち着いたところで物事を見ていない。そう思うと、ちょっと立ち止まって物事をみないといけないなと思うのだ。急がば回れという言葉がある。まさしくその通り。当たり前を当たり前にできないときこそ危ない。そんな戒めを思う今日である。
いい機会だと位置づけて
小学校で1/2成人式というものがあったそうで、親からお手紙のお返事を書くようになっているらしく、その返事を書きました。パソコン時代になっているので、手書きで書くというのは少なくなりました。若い頃は手紙もよく書きましたが、いつぶりだろうと思うほど前です。息子に手紙というのも照れくささはありますが、10歳という感受性が高い時期に言葉を残すのもいい機会と考えたいと思います。まあまあの枚数になったなと思いつつ、脱稿。
一人だけの空間
文学と農業会計の部屋とをわけている。場所も違うのだが、最近、この文学の部屋にいるとすごく落ち着く。追い求めたものが詰まっているし、文学は僕の生きる糧であった。だからこそ辞めてはいけなったのに辞めてしまった。非生産性のものに生産性を負うことで苦しくなったせいだ。昔、中学ないし高校の国語の先生になったらどう?と言われ、教職の免許を取るように、指導教員に言われたが、そのときは一度リセットしたいばかりだった。持っておけばよかったなと今は思うが、時は帰ってこない。そう思うと、人生の道中はいろんなことがわかっているようでわかっていない。そう思う。残りの人生をどう構成するのか、あるようでない時間、生きることにエンジョイできればと思うのだが、しんどいことだらけである。
絶対的な基礎的部分
最近、知った本だが、これはいいなと思った。高校生までに知っておきたい2000ワードのようだが、クイズのように問題があり、以下で解説している。高校国語を分析して選んだようだが、結構ハイレベルなものもカバーしているし、これは将来的に子供にもそれぞれ買い与えようと思う。おすすめ。やはり語彙が不足していると、論理といってもそのレベルの基礎的前提がないので、話が進まない。最低限、基礎的な部分は絶対的に必要と思う。子供がもう少し大きくなって、一緒に学べるときが来るといいなと思うのだが、果たしてどうなるだろうか。その時まで少しずつ学んでみたいと思う。
坊ちゃんから学ぶ
漱石を少しずつ読み直している。今回は坊ちゃん。言わずと知れた作品だが、1週間から10日で書かれたと言われる小説であるが、素直に坊ちゃんの成長小説として読めばいいと思うが、それでもなお深く考えるのは、清の存在、死というものから人生を考えるというか、その人が死んでも、受け継がれるもの(人)の中で生きるんだという命題を与えられているような気がする。そして、教壇に立つようになってから、教師の正義感とか思うこともある。漱石はやはり面白い。もう一度読み直そうと思っているが、なかなかうまく時間がコントロールできない。できるなら、少しサバティカルのような休息が欲しいなと思う今日この頃。
過去と成功
僕が言ってみたい言葉で、「もうひと花咲かせる」。この「もう」というのが味噌で、「もう」ひと花と言えば、過去に成功していることを意味する。だから僕の場合は、「ひと花咲かせる」という言葉の使用が正しいと思われ、何とかその花を咲かせてみたいと思っている。10代のころは何とか20代で、20代のころは30代でとだんだんあとになってきており、結果的に成功はしてない。何をもって成功というのかは難しいが、満足度が低いんだろうなと思う。なかなか思うようにはならないものだ。
年をとれば、楽になる
10年前の写真が出てきた。子供を背負い、仕事。役所とか外回りもこうした格好をしていた。まあ毎日ではなかったが、結構、このスタイルは好きで、もう子供もみんな大きくなったので、二度とない姿かもしれない。10年前と今であるが、もう少し年をとると楽になると思っていた。実際は、物質的にも精神的にも豊かになったとはいいがたい。懐かしい写真である。
72回目
生きていれば、72回目の親父の誕生日だ。よく金正日と同じ誕生日だと言っていた。この日より確定申告期間もはじまり、現職の時も所得税出身だったので、何か縁のある誕生日だろう。親父という人間に関しては、ほんと合わない人間で、どう思い返してもろくでもない父親だった。しかし、亡くなってから思うのは、親父よりもっとひどい人間が多くいるという現実を知り、少し株は上がった。しかし、相対的にはそうかもしれないが、絶対的にはひどかったと思っている。生きている間は、衝突ばかりしていたので、盲目的であった。まあそれでも血は地なのかと思う。静かに今日という日を過ごしたいと思う。誕生日おめでとう!