2021年 の投稿一覧

自衛隊にて

 

自衛隊の体験

今回、たまたま見つけた自衛隊のオープンキャンプ。人気らしく応募も多かったようですが、うまく当たりました。そもそも自分の住んでいるところに自衛隊があるというのも珍しいとも思う。僕が小さな頃は、自衛隊官舎もあり、お父さんが自衛隊員という人もいたので身近であった。子供は自衛隊はあるが、そう付き合いもなく、身近なようでそうでない。なので、少し体験をさせたいと思ったのがきっかけ。あいにくの雨だけが残念であったが、戦車も乗せることができた。いい経験だろうと思う。戦車にかんしては、僕の方が楽しかったのかもしれない。これは僕も初体験の出来事。子供と一緒に成長する時間ということで捉えたい。

朝ごはん

 

市場にて

朝、早く目覚めたので、市場へ仕入。僕の楽しみである。ついつい量を買いすぎて、嫁にはかなり怒られてしまう。何故か市場に行くと心が落ち着くのはなぜだろう。市場に行くと、まるという食堂でごはんを食べる。カープうどんを販売しているところである。今日は全部のせのうどんを食べた。朝、早く始動すると、時間が多く取れる反面、やはり眠たくもなる。しかし、人間は夜に寝て、朝起きる。このサイクルがやはり望ましいわけで、こうしたスタイルがなかなか難しくなってきている。要は電気がもたらす幸福とその反作用であろうか。電気のおかげというのはやはり大きいが、朝昼晩、本当はもっと従順に生きれた方がいいんだろうなとも思うつつも。市場に行くとよく思うことである。

打ち合わせを兼ねて

わいわいがやがや

打ち合わせを兼ねて、外食。外食には外食の良さがあると思うが、何を食べてもおいしかった。昼間にがっちりと話して仕事するのも大切だが、こうして夜に食事をするのもいいなと思う。やはりみんなのうっ憤があるのか、出れなかったこと大きかったように思う。酒が飲みたいというより、外に出れないという制限がきついのであって、これが解放されたのは大きいだろう。しかし、飲食店は人がなかなか戻らない。コロナでの生活様式が変わるのは致し方ないのか。つらいところだなと思いつつ。ただおいしいご馳走をいただいたと思う。

近所のすし屋にて

一息入れる

この前の豪雨の災害もあって、お店も被害があったので、激励。そして、何より腹も立ったこともあったので、気分転換で寿司を食いに行きました。昔ならカッ~と怒ってしまうことがあったけど、ワンクッション置いた方がやはりいいなと改めて感じる。コロナになってからはかなり出不精になった。出ること自体がめんどくさいと思うことがしばしば。いい傾向ではないね。自分が小さくなる感じがする。最近、子供らが寿司といえば、回転すしがいいようで、回転すしやに行くことが多い。なんか寿司らしい寿司を久しぶりに食べた気がする。まあ仕切り直しだ。多少は夜も出てみようかな。

図書館にて

母校と言えば母校になるが・・・

学術研究にはやはり大学の図書館が必要で、近くの大学と言えば広島大学ということで図書館は利用する。2年間お世話になったといえばそうだが、ビジター感満載である。ホームカミングデーという卒業生も集まる大学祭もあって、これにもアイスクリーム屋さんで参加するが、これにも何も感情がない。それぞれの心持である。さて国立大学の図書館は新しい書籍はあまりないが、古いものがあるという印象である。ただ書庫にもあり、要領がつかめない。広島大学の仕様など正直わからずに、2年間過ごしたので、まったくわからない。ちょっと持ったないかもしれないが、これも僕の仕様だろう。

 

睡蓮を見よう

目の保養

豪雨がなければ、葉っぱも色づくことはなかったのかと思うが、きれいな睡蓮を見ることができた。一番下の娘だけがついてきた。たまたまTVで見たのをきっかけに行ってみようとかなと思ったわけだが、こうした時間がやはり取りにくい。睡蓮を見ることいいことだが、道中に子供と話をすることが大切な時間のように思う。なぜこのように自分に余裕がないのか、あれこれ雑多のことは山積しているわけだが、今の傾向はとてもよくない。時間を作る強制力、いわゆる「何もしない」時間の創出もいるのかもしれない。

校正という地味な作業

僕にとって苦痛な作業

論文は書いた!さあ掲載だ!となると、避けて通れないのが校正である。大切な工程だが、とかく僕はこの作業が好きではない。研究者失格なのかもしれないが、本当に嫌いなのだ。それでもやらないといけないので、するのだが、まあ地味作業である。書評と言えども久しぶりに執筆した。論文を書くこと、執筆に関しては好きな営みである。机につくまでがどうしても時間を要する。モチベーションの持って行き方が難しいのかとも思う。今回、書評であったが、研究者として自分の活動の再開と位置付けたい。会計学ではなかったが、集落営農法人についてのものなので、門外漢というほどではない。もう少し学術的なことをする時間がほしいものだと思うが、日常がそうはさせてくれない。

オリンピックはそれでもやるのか

決断の遅さ

オリンピックの開催の意思決定は、IOCかもしれないが、政治の決断のなさ、1年たってもあまり変わっていない社会。困ったもんだ。コロナ感染者もかなり増えて、ようやく無観客開催の決断。なんかめちゃくちゃだ。コロナに打ち勝った証のオリンピックや復興五輪といってきたが、そうなのか。何のためにオリンピックをやるのか、ほんとわからない。たぶんコロナ感染は拡大するだろう。その道中に選挙があり、ごまかす。そんな話になるのかなと思うと、お先真っ暗と思うのは僕だけか。オリンピックは無理ではないかというのが私論である。

あの時の記憶

さすがに敏感に

3年前の豪雨の経験もあって、少々大丈夫よとはさすがに思わなくなった。自分の住まいも交差点も冠水している。いろんな方面で影響が出ており、自宅待機中だ。コロナあり、災害ありと平穏には暮らせないのか。安心、安全ということがどれだけ幸せなことなのか、平時ではなかなか思わないことである。それが当たり前と思うから。いろんなこと、考えるね、さすがに。これからもう少し続きそう。どうなるんだろう。非難も準備もしているが・・・・。

そんな時期

早いものでもう4年

昨日、珍しく政治関係の人とお会いした。それも長時間、話し込んだ。昨日まで気づかなかったが、来年1月には職場の東広島市も市長選挙があるんだと。衆議院議員選挙は任期満了だから、間違いなく秋にはあるにせよ、こうした身近な選挙ももうまもなくあるのかと改めて気づいた。政治関係の人は河井問題があってから会いにくい。そして、昨日の不起訴。前例ができる信じられない判決。お金は配ってもいいが、もらってもいいそうだ。断り切れなかったと言えばいいということか。司法ももう終わった。この国は法治国家ではないんだと。選挙も何の意味があるのかわからなくなった。候補者としてやっていた純真な気持ちは無駄な営みということなのか。そう思わざる得ない。