資格は機能しているのか?
相次ぐ政治家のお金の問題はあとを絶たない。升添東京都知事の件も真実はまだわからないが、説明責任を伴うものであろう。それにしても、資格は意味があるのだろうか?こうした問題を解決するためにできた制度資格で、政治資金監査人が制定されている。制度概要は以下の通り。登録政治資金監査人制度とは、国会議員に関係する政治団体が、政治資金の収支報告書を提出するときに、あらかじめ登録政治資金監査人による政治資金監査を義務付けるものであり、平成21年分の収支報告書から適用されることとなった。登録政治資金監査人の有資格者は税理士、弁護士、公認会計士とされている。登録政治資金監査人名簿の登録手続きは、申請書と提出書類等一式を提出した後、政治資金適正化委員会の審査を経て行われる。名簿に登録されると証票が交付される。登録政治資金監査人として政治資金監査を行うためには、登録を受けた後、政治資金適正化委員会が実施する研修を受ける必要がある。やはり事前のところで見抜けなければいけない。資格があればいいのだろうかと思う。確かに仕訳の一つ一つを見返すというのは難しいかもしれないが、週刊誌に指摘されるのでは、こうした資格も凋落である。本件が不正発覚の事実であれば、あっぱれというところだろうか?本人の自覚もあるが、再度、この資格は再考すべきであろう。
終わった昔のこと
僕はどこにも母校愛のない人である。卒業して、母校の校歌をみんなで歌うとか考えられない。その時間と空間は、絶対いたくない人である。そして大嫌いなのだ。だから基本、そういう集まりの類は行かない。それでも1度だけは行ったりしても、同様のことしか思わない。おそらくよくよく考えてみれば、いい思い出より悪い思い出の方が多い気がする。よかったなと思う学校もあるが、それでもいつまでも「過去」と遊んでいる余裕がない。振り返るほど、まだ老いてもない。常々思っていることだ。環境を変えたい、新しいことをやりたいなど、思うことがしばしばある中で、どうしても僕にとっての新鮮さを追い求める、求道的なものが大きい。その求道的な位置やそのときの環境がいいのだろう。過去はいつも美しい、そんな心境で生きられれば、どれほどいいだろう。大部分の人は、ときより思い出す母校が懐かしくもあるんだろう。それが僕にはない。これから新しい場所に属してもそういう心境は生まれないだろう。幸せなのか、不幸せなのかわからないが、ドリフトした人生しか生きられない。それでも新天地を新たに渇望している僕だが、そういう思考でしかない。こういう人がいても1人くらいはいいだろう。
それでも研究を続ける意義
農業会計研究に携わって、結構な時間が経った。僕の研究卒業記念に学会報告をして終わりをと考えていたが、そこから日本簿記学会の部会のお話をいただき、多くの研究者の方々とともに研究させていただいた。その内容は思いのほか、評価が高く、学会賞までいただくことになった。もう4年前の話である。力もないままに進んだ研究生活だが、改めてそれを思いなおすと以下のように解釈をしている。思いのほか、農業会計に深く向き合うようになったが、一定の成果を得る、残すことで、課題解決に向けた一歩を踏み出すという点で、僕の研究する責任があるような気がしている。正直なところ、農業よりも他の分野の方が得意であるし、他でやってみたいことはたくさんある。しかし、農業会計そのものを深く研究する人が少なくなっているのも事実である。そして会計の役割はさらに重要視させていくと思っている。その意味で、簿記という極めて地味なところから財務会計、管理会計と幅広く何らかのヒントを与えられる機会を創出できればと思う。それは不完全な段階でもいい。それに怖がらず、批判と共感を得ながら、学問の進歩があればいい。ひとまずは研究は楽しかったが、生産性を追われているので、しんどくなっている。それでももう少し研究を残す必要、そして意義があると思っている。
たまにはしゃぶしゃぶで
連休明け、仕事で話もあったので、和牛処犇へ久しぶりに出かけた。焼肉は重い、でも今回は肉ということで牛しゃぶを食べた。焼肉の場合、込み入った話をする場合、手がずっと動いていることもあり、どうも話がしずらい。鍋の方ならまだしやすい。和食を選ぶ方がよかったかもしれないが、いつも食わないものってのがいいもんだ。ここは確かにうまいし、心地いい空間だ。おすすめのお店。
新築減免の3年を過ぎて
先日、固定資産税のせっぷが届いた。新築一戸建ての場合、3年が、新築マンションの場合、5年が一定の要件を満たせば、1/2に減免される。今回、4年目になり、額が倍に増え、払うのがしんどいなと思う次第である。そもそも固定資産税は賦課方式であり、申告方式でない。つまり、本当にその金額が正しいのかどうかは未知でもある。そんなに価値のあるところに住んでいるとは思えないが、まあ仕方ない。自分のもののようで、実は違う。住宅ローンを抱えていれば、金融機関のものであるし、それがあってもなくとも、固定資産税を課せられるのだから、やはり行政のものであるのだ。税金の徴収の仕方も怖いものである。
文学って何だろう?
昔、一度だけ佐藤先生の公開講座に参加したことがある。漱石の「三四郎」の話だったが、「三四郎はかわいいですよね」とおっしゃれたとき、女の読み手で、読みが違うんだと驚いた記憶がある。今回、たまたま目にして読んでみた。「主人公はいない、文学って何だろう」 という本。文学という学問を始めるにあたって、非常に読みやすいと思う。また文学部に進学した生徒が、就職相談する話もあったが、どこの大学でもあるのかなと思うような出来事。<語り>の人称の話から、文学が見えてくるものがあるに違いないだろう。新書なので、すらすら読める一冊。
恐るべき我が息子
最近、露店のアイスクリ-ム屋をやるときに、4歳になる息子がお手伝いをしてくれる。我が息子ながら、お客さんのさばき方、勧誘、おもてなし、ほんと上手である。今回の催事は、八谷しおりアナウンサ-にお店紹介をしていただいたときも、物おじせず、お店のPRをしてくれた。今回、とれたてほやほやで作った、アスパラガスアイスを持って行ったけれど、「アスパラガスアイス、おいしいですよ~」と大きな声が会場に響いた。誰に似たのかわからないけれど、商人の才能はあると思う。帰りの車中はお休みしたけど、いつもありがとう。また頼むな!
文学の死滅
長年、文学研究を支えてきた岩波書店の「文学」が休刊とのこと。学生時代、大変お世話になった雑誌であるが、学際的な場がまた一つ消えた。ぎょうせいの国文学もなくなり、いよいよ文系の学問の後退は著しい傾向になるだろう。これは序章に過ぎない。文学の場の復帰を夢見ている僕は、寂しくて仕方ない。
自営業か、サラリ-マンか?
過日、自営業とサラリ-マン、どちらがいい?という話になった。ある人はサラリ-マンがいいと。その人はサラリ-マンで上のキャリアまで上がり、定年退職をした人である。一定の報酬、権限、裁量と、退職金とで満喫したサラリ-マン生活だったようだ。ある人は自営業がやっぱりいいと。自分の裁量で、時間的拘束がなく、働けるという点のメリットを主張された。個人的には、社畜人生という人もいるが、サラリ-マンの方がいいのかなと思う。一定の給与がもらえ、潤沢な退職金は、なかなか自営業で獲得するのは難しい。また「ワークライフバランス」といった言葉は、自営業にはない。それはお金を稼ぐというのが優先されるからである。それだけ業も多い。時間的拘束がサラリ-マンは続くが、そうはいっても上の役職なれば、異なる立ち位置で仕事ができる。何となくサラリ-マンの方がいいなと思うが、僕の性格的に無理だろうから、あまり考えても仕方のないことだ。でも生き方によって、人生はだいぶ違う。心も持ちようか。答えはそれぞれにある。ないものねだりなのだ。
月に一度の集まり
4年前くらいから、飲食業で知り合った方を中心に月に1度、広島の街で集まっている。今回は、かき船かなわさんでした。昨年、これまであった船の位置が変わり、新しい船で、営業をされている。広島の方であれば、ご存じの名店である。冬振りに行きましたが、とても美味でした。好んで牡蠣は食べませんが、ここの牡蠣の料理は実にうまい。僕のお気に入りは、りんごと牡蠣のグラタンで、いつもこれは食べている気がします。料理界のお師匠さんが、みんなでわいわいやってれば、必ずいいことがあると言ってましたが、こうしてわいわいやれるのも、大変楽しいものです。少し調子に乗りすぎて、時間を忘れて、深酒をしてしまいましたが・・・。まあこういう日もあります。