(2)一歩踏み出せない三十二歳の僕
政治へ勝負していきたい、そう思いながら人にも話をし始めた。どうせ選挙に出るのなら、「もっと大きなところで出ればいいのに」、「選挙なんて出るのをやめたらどうか」などいろんな意見もあった。三十一歳の時には、翌年が選挙だった。はっきり言えば、さっぱりわかってない。施策を作ることは漠然とはこうすべきだという考えは持ち合わせていたが、選挙制度にしかり、何をどうすればいいか、皆目わからなかった。
先ず書籍を購入して、『議員になるには』などのHOW TO本を読み、選挙に必要な七つ道具や、こうやるといったものが何となくわかりはじめた。
当時、最初に話したのは、小学校時代の恩師に話してみた。「やめておけ」というのがアドバイスだった。地域に貢献も何もしていない、誰も僕を知らないといった状況で勝ち目もない。選挙をやるには、事前に用意周到な準備も必要だと、当たり前だろうが、三十一歳の若い僕は、根拠のない自信に満ち溢れていた。そう、社会人大学院で二年間、関西から新しい人脈や知識、これまでとは違った世界を得ていたからだ。脆い自信を胸に語ったのである。
間もなく、こうしたアドバイスもありながら、政策勝負、こんなことを思い、政策を練ることにした。一度社会人大学院の場でも話す機会を得た。経営を学ぶ大学院であって、政治を学ぶところではない。粗削りなプランを語ったのである。
そのときに、マーケティングで学んだSWOT分析などの経営手法を交えながら、訴えていくことを薦められ、「そうか、自分の土俵を使うべきだ」と改めて思った。そして、共生という視点、「お金をかけず、人の幸せを作る」といった意見を得た。例えば、道路の舗装を地域の皆さんでコンクリ―トで直す、簡単なところなら業者でなくとも、みんなでやれば、わいわい言いながら意外と喜んでやっているものだと、そういうことは思いつかなかったなと思っていた。
三十一歳の僕の施策を思いだすと、LED化やPFIによる民間資本活用など、知識人が好むようなものばかりだった。これは当時のLED化などは早い取組であったし、PFIによる民間資本活用は、庁舎問題(未だ解決していないが)にも使える、そして指定管理者制度による「官から民へ」といった流れはいち早かったわけである。
そう考えると、これは有権者にも役立つ施策だろうし(実際、取り組めば役に立っていたと思う)、他の候補者とも差別化できると考えていた。
そして僕の目玉政策として、海田町は水が豊富なところであることに着目していた。これは多くの人があまり知らないことであり、僕は「水の博物館」を作ったどうかと考えていた。海田町は、観光資源がなく、広島市への通貨拠点になっている。都心から電車一〇分という好立地であり、基本的には恵まれているのである。学校や病院も多く、車産業の工場も多いところである。
つまり、活性化といってもそう本気で取り組もうとしなくても、ほどよい環境なのかもしれない。
話を戻すと、「水の博物館」構想は、経営塾でヒントを得たことだった。沖縄の宮古島にある、パラダイスプランという会社社長の講和を聞いたのが、きっかけであった。それは塩を世界から集めて、塩の販売店を経営しているものだった。聞くところによると、塩でないものはないくらいいろんな種類の塩を扱っており、将来的に「ソルトソムリエ」のような専門職があればいいなと語られた。
そう、これを水に応用させてみてはと考えたわけである。世界中から水を集めて、博物館にする。環境と水を考える学びなど、「水」を核として、学習する拠点である。社会見学で、来ないだろうか、広島に観光にきた方々は、立ち寄ってもらえないだろうか、こんな発想である。
こうした考えのもと、頭でっかちの構想を描いたわけである。ほどなく、大学院の修了生ということで縁をいただき、広島県議会議員をご紹介いただいた。当時は全く政治家との付き合いはなかった。閉鎖的に生きていたのかどうかはわからないが、会う理由もなかった。
話を伺うと、大きく言えば自民党でいくのか、民主党で行くのかといった政党の話から、出馬の心構え、お金のこと、新しい話ばかりであった。そして、ご紹介いただいたのが、民主党であったこともあり、当時の支部長と改めて会うことにした。試されているように、道州制はどう思うかといった政策の話や、自分の選挙区を三周はすべてのお宅へ回ったなど、経験談をお聞きした。先般の僕の構想もあとで見せたが、あまり関心は持たれなかった。
この時期頃から、出馬に対して後ずさりしていた。とはいうものの、自転車で町内を回ってみた。あまり行かないようなところである。三十一歳という若さを売りにしていくわけだから、選挙カーを使わず自転車で回るといいんじゃないかとも思っていたが、体力的に一時間でばてた。これはマイナスになる。そんなことを自分自身と格闘しながら、十一月の僕の誕生日を迎えた。三十二歳になった。
十二月になっても、選挙に出るつもりで考えていた。しかし、自分への自信なさと虚勢の強がりが露呈し始めていたように思う。あれこれ話していくにつれ、いろんなことも言われる。それに応対もままならない。無鉄砲そのものの戦いの中で、小さな自信と言えば、出馬すれば三十二歳最年少候補という事実であった。体制もない、さてどうするか、民主党の支援を少しでも受けられるようにするか、時間は刻々と過ぎていった。
年が明けて一月、いよいよ選挙説明会である。僕は行かなかった。いや行けなかった。怖気づき、恐怖と対峙することばかりであった。もうダメだ、やるなら次回という逃げ腰であった。何があってもやる、意地でもやるといった気概はなかった。馬鹿にされたくないという心もあった。出ないで馬鹿にされるということ、出て馬鹿にされるということ、いろんな気持ちが交錯しながら、取り止めたのである。
そんなこんなで、いよいよ二〇〇九年の選挙を迎えた。十六人当選できる選挙に二十一人が出馬した。多くの新人も出ていた。逃げた自分がどうしても許せなかった。仕事以外は一切外にでなかった。直視できなかった。勝つことも負けることもしなかった。勇気もなかった。自信も結局なかったのだ。
蓋をあけてみると、多くの新人が当選した選挙となった。様子も何もかも知らず、聞こえる選挙カーの音だけが残った。
多くの失意のもと、三十二歳の春が終わった。「出ればよかったのに」、「臆病だな」といった声もあった。十人十色である。結局、すべてあとの祭りである。終わった選挙だ。
少しだけの政治への戦いの思いは残った。四年後に一縷の望みを託した。今は遠吠えでしかない。虚しい心を胸に一人ぼっちの戦いは終わった。