文学

夢十夜論

構想の絵図

整理整頓してたら、文学をやってた頃の文献がでてきた。漱石の夢十夜の論文をコピーしたもの、一箱。何となく記憶はあるが、図書館にもよくこもっていたと思う。当時は先行研究のまとまった辞典のようなものを紹介され、それを手掛かりにした。漱石の中でも夢十夜を選んだのは、後々苦しめた【夢十夜自体は、小品ではあるが、漱石の総体とも言われる】から、こんなに読まざる得なかったが、メモ書きを見るとある程度、骨子にはなっている気がする。「新聞小説としての夢十夜」をどう向き合うのか。非生産の文学に生産性を求めたが故の苦しみであった。漱石に向き合うには今、必然のような気がする。

 

書斎を作る

本があふれる

結婚をしてから、実家にほっぽり投げてきた本をようやく移動した。箱にして30箱。これだけでも入りきらず、だいぶ処分した。恐ろしいことにまだ自分の家には同じくらいは本はあり、これをどうするのか、もう入らないし、ひとまず住まいに置いておくことにはなろうが、それにしても多い。写真は漱石の研究書。農業会計で博士を取得したが、やはり研究者をやるのなら、最後は文学をやりたい。ただもう少し自分の中で社会科学でやり残したことがあり、それをきちんと区切りをつけてからになると思う。それまではやはり封印。少しは文学研究書も読むが、やはり日常で研究した人にはかなわないだろう。だから楽しめばいい。漱石研究だけで300冊はある。コロナ時代、文学が与えるものは大きい気がする。書斎はなかなかいいものだ。ここで寝泊まりできるようになれば、さらにいいとは思うが・・・。

最終講義

近代の相克

かつて在京時に、教えを請うていた小森陽一先生。東大ではなかったが、いろんなところに講義をされていたので、僕はよく授業を聞かせてもらった。東京から離れる時に、食事に誘ってくださった。今の閉塞感と気分転換に文学でもと思ったところ、やはり小森陽一先生のことが思い浮かんだ。たまたまYOUTUBEで最終講義がUPされていたので、視聴した。もう退官したのかという時の流れと、当時と同じ切れ味ある講義だった。人を引き込む講義に魅了され、また同じテクストを読んで、なぜこうも「読み」が違うのか。確かに100人読めば、100通りの答えがあると思うが、僕の頭脳ではそこへたどり着かない。それにしても、僕に影響を与えている・与え続けている先生であることは間違いない。何かと忙しくて、最終講義(退官)は気づきもしなかった。それももう一年前の話だった。是非、参加したかったなと思う後悔もある。何かこの閉塞感、近代の相克を向き合っているような気分で、文学に心の救いがあるのではないかと思っている。どこかでまた講義を聞きたいものだ。そして、僕も教壇に立つときは、分野は違えど、このような講義をしたいと思う。

日本語教育

20年前の記憶

かつて東京にいたころに、日本語教師の資格を取得した。留学をしたいと思っており、お金がかかるので、留学先で何かできないかと考えたら、外国語としての「日本語」を武器にしたらどうかと考えたものだ。日本文学を専攻していたので、「日本語」と「日本文学」の接点を探るということは、意義が大いにあった。またその頃は、日本語ブームと言われていた時代で、巷に雑誌などにもよく取り上げられていたと記憶する。そんな最中、この日本語教師たるものがひょっとしたら活用できることになるかもしれない。当時のいろいろはあまり覚えていないが、この前、実家の整理をしていたら、終了証など出てきたとか、なんかつながるのか。点が線になるのか。やはり人生無駄なことはない。教科書を読みなおすと、何となく思い出したような思い出せないような。20年前の僕も悩んでいた。今と変わらない。でも20年前の僕は,20年後の僕は想像できないだろう。振り返るには早いが、その後の20年は激動である。

 

 

気分転換の読書-たまには文学-

三田文学の源流、永井荷風

永井荷風を読んだ記憶はある。記憶はあるといっても、遠い記憶を引っ張り出す、そんな感じであったが、改めて三田文学、慶應義塾とのかかわりを知るいい機会になった。書の中にもあるが、慶應への現代への系譜としても、永井荷風という人を論じ、語り継いできている。この書の中で、慶應出身者が論じた共通の問題点として、このように末延が述べている。「それぞれが「性」という荷風文学を貫く根本主題をしっかりと視座に据えたうえで、荷風文学における根本主題として、それぞれの作品の最も奥深いところに秘められた「性」による国家の解体という、荷風のきわめて過激な思想と、それが日本の近現代文学と二十世紀の世界文学に対して持つ意味が、十全に読み解かれてこなかった(273-274頁)」と。なるほど、人間の「性」のドラマを、人間の根源的な主題への向き合い方は、接近していても、接近できていないのか、現代の作品はそこへたどり着いているのか、いやそうとも思えない、ギリギリのところへの描写はどうなのか、いろいろ思うところはある。荷風は物語は書いたが、小説は書かなかった、書けなかったということも過去の論者の指摘もあるようだが、それはどうなのか。荷風を少し読んでみたくなった。

慶應義塾文学科教授 永井荷風 (集英社新書)

漱石の命日

101年目の命日

夏目漱石を巡る一年から、また始まる新たな一年へ。100年にあたり、全国いろんなところでイベントや催しもあった。結局、3月に神奈川の文学館のものしかいけなかったけど、できるだけ漱石を向き合うようにした。読み直したいと思っていたけど、なかなか読めなかったが、評論や様々な文庫、書籍は読ませてもらった。紡ぐ言葉を辿りながら、こうじゃないか、ああじゃないかと考えさせられること、多々あった。文学を通じて、社会の世相を知り、社会に問いかける。この答えは風に吹かれているかもしれないが、100年経っても新しい言葉や思想が、我々、未来の読者に勇気づけてくれる。文系部もなくしていこうとする現代は、ほんとに正しいのか?生産的なものがかりが流行るのもどうかと思われる。立ち止まって、じっくり考えたい。でも時間がない、こんな今日この頃の僕である。もう一度、漱石に向き合いながら、これからの人生訓を蓄えたい。

 

舞姫、エリ-ゼのその後

512oweb5opl__sx358_bo1204203200_

飽くなき探求

徹底した調査によって、エリ-ゼのその後が明らかにした一冊。森鷗外が唯一、愛した女のではないかと言われているエリ-ゼ。舞姫の作品に出てくるエリスがモデルとされているが、エリ-ゼがその後、どう生きていたのかということを知れる。鷗外の死の直前に、手紙や写真など自身で処分されたと言われており、記録がない中、六草さんのドイツでの調査がこうやって、世の中に読まれ、披露できるのはとても素晴らしい。やはりあきらめてはいけない。それでもここまではなかなかできない。是非、手にとって読んでもらいたい一冊。鷗外の見方が変わるかもしれない。

 

100人読めば、100人の答えがある

%e7%84%a1%e9%a1%8c

読み手の自由

ロラン・バルトは「テクストの死」ということで、書き手のテクストが離れた瞬間、書き手から読み手へ読解はシフトし、テクストの解釈は読み手の自由になるという。つまり、書き手の想いが読み手に伝わるかどうかはまた別の次元の話になるということで、この本は国民的作家である漱石の読みに対して、幅広く読み手の面白さを伝えている気がする。小説をすべて読む必要はないとか、わからなくてもいいとか、読者の興味はいろいろあって、自由に味わっていけばいいという文学の醍醐味を教えてくれている気がする。子供も一定の歳になったら、読ませようと思う一冊であった。文学はやはり面白い、そして心を豊かにさせてくれるものである。みんな研究者になるわけではない、読書は楽しめばいい。ほんとにすべての本がすべて理解しているとは限らない。

漱石のことば

516xy7q1rzl__sl160_

断片の言葉から学ぶ

再三になるが、漱石没後100年。とにかく漱石関係の書籍が多く発刊されている。漱石のことばをまとめたものものも、何冊か発売されており、こうしたものから学ぶことも多い。人生訓、文明、思想、恋愛・・・、いろんな角度から向き合うことが可能である。なぜ漱石は多くの人に読まれるのか。この答えは漱石が放つ言葉が、今なお人間の根幹の琴線に触れるからではないかと思う。何度もその言葉から考えさせられる。文学軽視の流れにある。「文芸は技術でもない、事務でもない。より多くの人生の根本義に触れた社会の原動力である」(三四郎(同書、216ペ-ジ)文系不要論の再考といえる遺言である。

漱石、100年後に逢いましょう

61yjkflg4l

一生枯れない泉

奥泉光さんの編纂の漱石特集号。今年は、漱石没100年ということでたくさんの催しやこうした特集といったものがあり、漱石を研究していた身としてはどうしても気になる。この本の中にも書いてあるが、漱石の文学について、奥泉光さんは「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」と表現されているが、まさしくそのように思う。研究者においてもたくさんの方が批評や論文が残されているが、色あせることもない。一般の読者にもたくさん愛されている国民的作家であるのは言うまでもないが、同じ作品を読んでも、こうだったのかもしれないとかしばしば思う時がある。だから虜にされるんだろうなと思う次第だ。漱石の作品の中に、夢十夜という小説がある。夢のお話が10夜あるのだが、その最初の1夜で、「百年、私の墓のそばに坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」という文章がある。今年は100年後である。何か問いかけられているような気がしてならない。漱石を知る一冊として、いいのではないかと僕は思う。