日常

子供たちの気分転換

 

緊急事態宣言解除

大方二ヶ月、自粛続きで子供たちもストレスがあったに違いない。またその二ヶ月、子供たちとべったりいた奥さんも大変だっただろうと思う。そんないろいろを考えて、子供たちと遠征。6月からは学校も始まるらしい。親としては悩みが増えそうだ。毎年、あるぺん屋にはお世話になっている。宿泊業もコロナで大変だが、是非、こんな素敵な時間と空間を提供してくださる場所は残したい。ここで経験することは、大きくなってから必ず活きるだろう。また訪れるまでのしばしの小休止。

人生で勝ってきた人

イライラが続く

コロナ関係もあり、イラついている。コロナのせいだけではないが、人生で勝ってきたひととの対応に疲れている。何をもって人生に勝ったのかという議論はあるが、ある程度の学歴・キャリアを持つ人に多く見られると思う。何が決定的にダメなのか。要は「答えを決めて話している」ことが相手にわかるということだ。自分の過去の経験や実績をひけらかすまではいかなくても、それを振りかざし、言うことを聞けという圧力。僕はそういうのは嫌だから、学閥にもつかない、僕はいつも無所属の位置づけを貫いている。人生に勝ってきた人は自信家が多く、それを人に押し付けがちだ。僕も自信家にみられるが実はそうではない。人への区別・差別が嫌いだからだ。僕は露天商をさせてもらってから、自分が変わったと思う。露天商の人たちと一緒にいると、世の中が見えるというか、そういう感覚になる。これは個人的感想だが、インテリと向き合うのは疲れる。人には区別・差別をしないというのが原理原則だから、多様でいい。ただ人生で勝ってきた人は人の心がわからないような気がする。僕は人生ずっと負けてきた。勝ちたいと思うが、勝とうと思ってたどり着かないけど。とにかく今、コロナよりそのストレスが大きい。ひとまずほっとこうと思う。今日のつぶやきである。

物思いにふける

散歩

コロナ戦争中なので、散歩しに行ってみた。いつでも行けるようなところは行かないから、いい機会だった。遠くから見ると、本通りも結構人がいた。宣言解除だから、自粛自粛というバカの一つ覚えにはならないだろう。第二波が来ると言われてるが、人々の動きは平時に向かっている。新しい生活様式に取り入れながら。補償も脆弱だから、生活のため仕事するだろう。健康で文化的な最低限度の生活を営む権利…。憲法を学ぶいい機会かもしれない。9条だけではない。これからどうなるんでしょうか?いろんなことを思う今日この頃。

書斎を作る

本があふれる

結婚をしてから、実家にほっぽり投げてきた本をようやく移動した。箱にして30箱。これだけでも入りきらず、だいぶ処分した。恐ろしいことにまだ自分の家には同じくらいは本はあり、これをどうするのか、もう入らないし、ひとまず住まいに置いておくことにはなろうが、それにしても多い。写真は漱石の研究書。農業会計で博士を取得したが、やはり研究者をやるのなら、最後は文学をやりたい。ただもう少し自分の中で社会科学でやり残したことがあり、それをきちんと区切りをつけてからになると思う。それまではやはり封印。少しは文学研究書も読むが、やはり日常で研究した人にはかなわないだろう。だから楽しめばいい。漱石研究だけで300冊はある。コロナ時代、文学が与えるものは大きい気がする。書斎はなかなかいいものだ。ここで寝泊まりできるようになれば、さらにいいとは思うが・・・。

片付け

論文の考え方

実家を整理していたら、こんな本が出てきた。大学に入ってからも論文の書き方など、何個か読んだ記憶がある。その際に古本屋で買ったのではないかと思う。買ったとは言え、読んだ形跡が全くない。どうも気になったので、読んでみた。高校生が学ぶにはレベルが高いような気がするが、論文とは何たるかとことがきちんと書かれている。論文設計の表を用いて、問いと答えを緻密に構成する手引きがなされている。ちょっと古い本だが、いい内容と思える。論文を書く身になって、やはりセルフチェックが必要である。いつもバックトゥザベーシックを忘れずという点で戒めなければならない。なんでもそうだ。いい機会になった。是非、一読を!

 

友の死

感情が整理できず・・・

大学院時代の仲間の急死、聞くところによると、死因はくも膜下出血のようだ。29歳のときに、大学院で知り合い、14年の付き合いになる。毎年のように旅行し、大阪で広島で全国いろんなところで一緒した。ビジネスも一緒にやったり、大学院の同窓ではかなり密な関係だった。歳は9歳上であったが、あまり年齢差も関係のない、気さくな男だった。あまりに急であるのと、想像もつかなかった。しかも2日前もテレビ電話をしていたし、そのときは元気そうだった。誰からも好かれる人間で、思い出はたくさんある。また僕の仲の良かった人がいなくなった。未だに信じられない、受け止めきれない。去年の旅行に一場面より。ありがとう!木原強!木原ちゃん、さすがに悲しいわ。

イベントの中止

夏も秋も

コロナ影響はどこまで進むのか。僕も各種相談続き。自分もかなりの不安。眠れなくなってきている。今日はイベント。僕の仕事であるイベントも全くできないので、非常に困っている。露天商の仲間たちもほんと困っているに違いない。先日、青森のねぶた祭りの中止の記事を見たが、秋に開催される長崎くんちも中止のようだ。毎年、10月にある西条酒まつりも中止の方向らしいし、広島フードフェスティバルもその方向らしい。正式発表はされていないが、たぶんそうなるのではないか。飲食店も半減するのではないかと言われている。弁当や仕出しに活路を求めているが、いつどうなるかわからない情勢から財布のひもは固くなる。ほんとどうなるの?って思うし、やけくそにもなりそうだ。もう少ししたら、「もういいや!普通に生きる」といって、自粛をやめ始めるかもしれない。この閉塞感、吹き溜まりはたまったものではない。さすがに毎日、毎日の話なので、気が滅入る。イベントもどこかでやらないと思うが、いつから始められるのか。平時の日常がどれだけ幸せだったのかと思うところである。

 

勝ち組思考

負け犬の遠吠えか

生きていると勝ち組と負け組と人生を識別する人がいる。もしその区分に当てはめると、僕は人生、負けっぱなしのまま、人生の半分を生きた。ユングは40歳を人生の正午といったが、43歳の僕は今、人生の午後を過ごしていることになる。その午後になって、やはり殊更、思うことは人生で勝ってきた人は、人を見下したり、区別したり、説法したりと人の気持ちが分からない人が多いような気がする。だからあまり僕もインテリが集まるところにはいかない。好きではないからだ。人生はいい方がいいが、それぞれ価値観も違う。負け組にも負け組の意地がある。かつてお付き合いのあった先生も明らかに人生の勝ち組で、俺のようにやれば成功するいった方程式を解く人だった。その周りの人は幸せになったのか。僕はその人といて不幸せになったので、合わないことにしたし、没交渉にした。社会情勢が不安定の中、僕自身も生き方を問われているような気がする。もう40歳を過ぎて、考えるわけだ。残された午後に生かされた社会にどう貢献できるのかと真剣に問う毎日である。

無力なMBA

ピンチはチャンス?

コロナウィルスの影響は日に日に広がっており、負のスパイラルである。それでも日は登り、今日が来る。だからいろんな打開策を練って明日に繋げることが必要であるが、策が浮かんでこない。僕もMBAは終了させてもらった。一応は勉強したつもりである。ビジネスの種というか、こんなときに仕込んでおく、打開策となる一手を打って、状況を打破したい。そう思いつつ、何も手を打つ策が浮かんでこない。無力そのものである。そうなると、日々のことをコツコツという帰結になるが、それは当然の前提であって、それ以上もそれ以下でもない。自分の無知無学を感じるとともに、それでも進まないといけないので、知恵を総動員して考え抜き、行動したいと思う。みんな持ちこたえられるだろうか・・・。自分もそう。明るい話題の中、元気に過ごしたい。

 

身体を調べる

はじめての経験を経て

秋口からずっと突っ走ってきたせいか、身体の異変を感じ、数日にわたり、血液検査や内視鏡、CTなど診断、検査をしていただいたが、何も異常なかった。ほっとした。過労や心労かもしれない。内視鏡もCTもはじめての経験で、不安と恐怖であったが、やはりこういう検査でないとわからないらしい。40歳も過ぎれば、いろんな異変も出てくるだろうが、とかくこの数か月は体にすごく負担のあることの連続であったので、傷んでいたのだろう。コロナの件もあるから、できれば病院には行きたくなかったが、先に延ばしてもいつかくることである。やらにゃあいけんときはやらにゃあいかんのでしょう。