配本用
博士論文を脱稿してから、数か月たっているが、やはりコロナでいろんなことが遅れている。ようやく簡易製本をして、少しばかりの方に送るようにした。学位授与式もなくなり、終わりがこんな終わり方になったが、前向きに考えれば、ギリギリのところだったように思う。今なら審査会も延期、学会もないので、発表の機会も失われるなど、どう考えても前に進みようがない。1月末の審査、3月初旬の決定と考えると、ほんと最後の最後というところだったかもしれない。いずれにしても、コロナのおかげで、何かといろんなことができない。だから困っているが、そうは言ってられないから、少しずつペースを取り戻せないかと思うところだ。いずれにしても、まあひとまず感謝の意味を込めて、製本した。インターネットにも公開されるので、博士論文が読みたい方はプリントアウトをお勧めします。つたないものであるけれど。
会計事務所にて
毎日、コロナコロナである。助成金、補助金、協力金・・・、そんな話ばかりである。緊急事態宣言と休業補償はセットと言われるが、その程度がやはり問題と思われるが、それでもないよりあった方がいい。不慣れな手続きは、事業者にはしんどいものだ。そのしわ寄せは我々にも来るわけだが、やはり簡素とはいいがたい。それぞれの理解度や準備の程度もあるので、やはり時間を要する。かとって、機械的にはいはいというように進むのではなく、伴奏して人の話も聞く。時間はやはりかかるものだ。日常でこなさないといけない作業も手を止める。急ぐ資金手当て。まったなしである。倒産というようにまだ目の前に(公表という意味で)あまり出ていないが、ばたっと表に出たときにどうなるのか。初動の失敗は否めない。それにしても、忙しいな・・・。
構想の絵図
整理整頓してたら、文学をやってた頃の文献がでてきた。漱石の夢十夜の論文をコピーしたもの、一箱。何となく記憶はあるが、図書館にもよくこもっていたと思う。当時は先行研究のまとまった辞典のようなものを紹介され、それを手掛かりにした。漱石の中でも夢十夜を選んだのは、後々苦しめた【夢十夜自体は、小品ではあるが、漱石の総体とも言われる】から、こんなに読まざる得なかったが、メモ書きを見るとある程度、骨子にはなっている気がする。「新聞小説としての夢十夜」をどう向き合うのか。非生産の文学に生産性を求めたが故の苦しみであった。漱石に向き合うには今、必然のような気がする。
本があふれる
結婚をしてから、実家にほっぽり投げてきた本をようやく移動した。箱にして30箱。これだけでも入りきらず、だいぶ処分した。恐ろしいことにまだ自分の家には同じくらいは本はあり、これをどうするのか、もう入らないし、ひとまず住まいに置いておくことにはなろうが、それにしても多い。写真は漱石の研究書。農業会計で博士を取得したが、やはり研究者をやるのなら、最後は文学をやりたい。ただもう少し自分の中で社会科学でやり残したことがあり、それをきちんと区切りをつけてからになると思う。それまではやはり封印。少しは文学研究書も読むが、やはり日常で研究した人にはかなわないだろう。だから楽しめばいい。漱石研究だけで300冊はある。コロナ時代、文学が与えるものは大きい気がする。書斎はなかなかいいものだ。ここで寝泊まりできるようになれば、さらにいいとは思うが・・・。
不要不急の生活
コロナで生活にいろんな制限が課されている。また1か月、緊急事態宣言も延長をすると言う。僕も限界に近い。そろそろ「えいや!もうええわ!」って人も出てくるのではないかと思う。休業と補償もない中、生活もしていかないといけないわけだから背に腹は変えられないわけだ。いろんなことがまだまだ起きるとは思うが・・・・。さて、こういうコロナ時代にオンライン飲み会たるものが流行っていると聞く。僕もばかばかしいと思っていたが、やってみると結構面白い。会えないのは寂しいが、各々の家で、それぞれの食べたいもので飲みたいもので・・、終われば、ここは家。移動も必要ない。映像もわりかしいいもので、表情もよく見える。アフターコロナになっても、続くかも。外食は変わっていくのか、コミュニティも変わるのか。オンライン飲み会、一度はやってみたらどうだろうか?
論文の考え方
実家を整理していたら、こんな本が出てきた。大学に入ってからも論文の書き方など、何個か読んだ記憶がある。その際に古本屋で買ったのではないかと思う。買ったとは言え、読んだ形跡が全くない。どうも気になったので、読んでみた。高校生が学ぶにはレベルが高いような気がするが、論文とは何たるかとことがきちんと書かれている。論文設計の表を用いて、問いと答えを緻密に構成する手引きがなされている。ちょっと古い本だが、いい内容と思える。論文を書く身になって、やはりセルフチェックが必要である。いつもバックトゥザベーシックを忘れずという点で戒めなければならない。なんでもそうだ。いい機会になった。是非、一読を!
感情が整理できず・・・
大学院時代の仲間の急死、聞くところによると、死因はくも膜下出血のようだ。29歳のときに、大学院で知り合い、14年の付き合いになる。毎年のように旅行し、大阪で広島で全国いろんなところで一緒した。ビジネスも一緒にやったり、大学院の同窓ではかなり密な関係だった。歳は9歳上であったが、あまり年齢差も関係のない、気さくな男だった。あまりに急であるのと、想像もつかなかった。しかも2日前もテレビ電話をしていたし、そのときは元気そうだった。誰からも好かれる人間で、思い出はたくさんある。また僕の仲の良かった人がいなくなった。未だに信じられない、受け止めきれない。去年の旅行に一場面より。ありがとう!木原強!木原ちゃん、さすがに悲しいわ。
自粛が続く中で
あまり外も出られないから、家の片づけを少しずつしている。かなりの本が家にある。実家も結婚前とかわらずそのままにして出ているので、実家にもある。実家は文学が中心に。今の家は、農業会計が中心になろうか。まあずいぶん増えたものだ。この際、書斎を作って、そこへすべて所蔵しようかと思っており、まずは実家から始めたが、それにしても過去の自分もいろんなことを考えていたんだなと感じることが多い。最初は文学理論や漱石研究などわけて、段ボールづめをしていたが、途方に暮れて、ひとまず整理に変えた。そして読まないであろう書籍も今回、売ろうと思い、これも別枠で箱詰めし、意を決して売りに出かけると、営業自粛。本屋は営業自粛だっけと思いながら、まああれやこれや。はっきり言えば、まだ実家で30%程度で、まだまだ時間はかかりそうだ。それにしても、漱石研究をあきらめなければよかったかもと思ったものだ。かなりの研究書がある。漱石研究者と思われても、たぶん違和感ない。コロナでいろいろ考えることもあって、そうは明るい未来があるとは思えない。だから残りの人生、好きなことをして生きたほうがいいのかも思い始めている。僕は好きなことをしているようで、やはり統御された人生のような気がする。人生の解放区があるのだろうか。心の整理整頓は、人生の棚卸をしているようだ。今回、いい機会ととらえて、見つめ直したいと思う。
ステイホーム
コロナで軒並み、営業自粛が広がっている。飲食店も静かに足並みをそろえているが、やはりにぎわいがなくなり、寂しいものだ。コロナとは言え、みんなのイライラも、自分もイライラ。かり蔓延しているように思う。飲食店は閉塞打開の一手として、テイクアウトに力を入れている。力を入れるのはいいが、テイクアウトをするにも許可がいる。3類の仕出しの許可を保健所にとらないといけないわけだが、これをとらずに、コロナ危機だからとすすめているところが多い。コロナで危機なのは承知しているが、保健所の取り扱う食中毒の類は別物であり、やはりここは規制がかかるのではないか。この前も寿司やが食中毒が発生したとも報道があったが、是非ともこの点は、きちんとした体制をと思うものだ。テイクアウトは家で過ごしながら、外出した気持ちにも少しはなれる。たまには家庭でもいいのではないかと思う今日この頃だ。写真は炭火焼肉黒焼 のオードブルである。
時間がない?時間ある?
日々、時間がないないと生きてきたように。いや言い訳をしていたのかもしれないが、やりようがないことが多く、その分の時間があるのかもしれない。だから仕方もないし、勉強でもしようかなと。勉強を日ごろしていないとも思わないが、がばっとやろうかなと思いはじめている。ピンチはチャンスか。オンライン飲み会とかはやっているみたいだが、どうも家でお酒を飲むというのが気が進まない。盆正月程度しか家でお酒と思わないもので、どうしても飲みたければ外へ出る。毎日、お酒が欲しいほうではないし、まあ今回を機に生活を変えていくことも考えなければいけないかもしれない。