がっつりと
若い人とランチをすると、たっぷり腹いっぱいというのがどうも頭にあり、がっつりコースを選んでしまう。ちょっと調子にのって、若い人と同じものを頼んでみると、食べるのに一苦労。残したら悪いと思い、一生懸命食べる羽目に。結果、夜ごはんもいらないくらい腹がパンパン。やはり量は考えないといけない。もう40代半ばなので、若い人と同じようにはいかない現実。反省である。食べないと元気も出ないしねと思うが、ほどほどにしようと思うランチだった。
若い人とランチをすると、たっぷり腹いっぱいというのがどうも頭にあり、がっつりコースを選んでしまう。ちょっと調子にのって、若い人と同じものを頼んでみると、食べるのに一苦労。残したら悪いと思い、一生懸命食べる羽目に。結果、夜ごはんもいらないくらい腹がパンパン。やはり量は考えないといけない。もう40代半ばなので、若い人と同じようにはいかない現実。反省である。食べないと元気も出ないしねと思うが、ほどほどにしようと思うランチだった。
4月4日。母の誕生日&結婚記念日である。企図して同じ日にしたのだが、昨年、結婚10年の時にはじめて花を妻に渡したら、結構喜んでいたので、送ることにした。また母にも送ることにした。母にすれば、あと何年、花を渡すことができるだろうかと思うし、妻に関しては好きでもらった女房なので、まあこの日だけはと思う。それにしても花を人にあげるということは少なくなった。花というのは枯れるからいい。また来年、花のプレゼントはしたいと思う。
桜を見ると、久々に花見がしたくなって、わずかばかり人を集めて、花見をした。とにかくコロナで集まりにくいし、飲み会などというのはご法度である風潮の中だが、少しリフレッシュも兼ねることにした。ほんと3年ぶりに花見をやったわけだが、うまい肉を、うまい酒、そして独占の桜。こんな贅沢な時間はなかった。もうコロナ前には戻らないが、人間社会、1人では生きられない。楽しむ時間を創出して、たまにはこんな会をやりたいと思うところだ。
3/31日をもって、うちの家にも幼児を卒業し、みんな小学生になった。春休みなので、平日に陶芸教室をしていただいた。その写真である。今日まで幼児料金、ギリギリだったけれど、あてつけではない。月に一度、行っているのだが、今月は忙しくてどうにもならなかったので、妻にお願いした次第。それがたまたま今日であったのだ。子供たちが熱心に陶芸に向き合い、作品に没頭するのはとてもいい。みんな仲良く学んでほしいと思う次第。
漱石でもマイナーな小説である「坑夫」。なかなか忙しくて読み進められない。島崎藤村の「春』の予定が急遽、ピンチヒッター的にまわってきて、出された小説になるが、-自分が坑夫に就ての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていなんでも分る、と締めくくられており、ルポルタージュの方法をとっている。職業というもの、青年がなぜ坑夫に堕落したかという個人的な事情を青年の事実として、<過去>を物語ることで、<動機の解剖>という記憶や意識を、否が応でも読者が向き合うことを求めている。先ほど取り上げた結語が、夢から覚めたように読者に投げかけているのは、漱石のうまさというのを感じるところである。
躍らせているような時間の使い方のようで、妙に疲れる。自分がイニシアチブを取る生活にならないと、物事を冷静に判断し、将来の計画を立てるなど、心の整理整頓ができない。最近、まあバタバタは続き、右行き左行きと、てんやわんやである。時間の使い方を本気で構成しないと自分も今後困るのではないかと思う。一方で締め切りがあるものは踊らされているが、これはやはり張り合いにもなっていいのではないか。う~ん、これは今だけに始まったことではないが、時間だけはみんな平等だからできるなら充実感を味わう生活にしたいよねと思うものだ。
庄原で過ごした時期は生まれてから2年弱しかないが、僕のプロフィールは広島県庄原市生まれであり、僕にとって特別な場所である。県北は心が落ち着く。やはり地の血があるというか、そういうものを感じることがある。今回、墓参りをし、僕が生まれて過ごした家の位置を教えてもらった。長屋はもう今はないが、線路沿いに家があったことはかすかに覚えている。もし庄原でそのまま大きくなったら、どうだったろうと思うこともあるが、庄原はやはりいいところだなと思う。行くのにびっくりするほど遠くはないが、行くまでにどうも遠いなといつも思うが、着くと心は近づく。戻る家がないのが寂しいが、なんかしらで庄原と接点が残りの人生で持てれば幸いなのだが・・・。小さな僕の希望である。
月末までに論文を出そうと思い、ようやく書いたが、内容は今一つ。しかし、まあそれなりにというところだろうか。学者のはしくれとしても、やはり論文は書かないとと思うし、学生にレポートを課すなど,権力を持った人間からすれば、自分を律しないと教壇には立つ資格がない。だから何とか年に1本は思うところ。今年度はできれば、もう1本出したかった。どうにもこうにも忙しくて、手がつけれず、意地で1本やったが、どうもしっくりはきていない。実力不足である。それでも何とかと思うのは、自分がどうあるべきかを考えることが必要だからである。次に何とかいいものを残せるように頑張ろうと思う、それにしても悔しさの残る論文だ。
3番目の卒園式。長い幼稚園生活が終わりました。僕にとっても子どもの入学式や卒業式に行くことは今後ないと思います。父親までずっとべったりではなく、父親はしっかり働き、家族を支える。お父さんは忙しくていけなくてごめんねってするのが、父親の美徳と思うんだけどな・・・。昭和のにおいのする親父でいたいと思う。ひとまず卒園、おめでとう!
子どもたちは大久野島が大好きで、1年に1度、島へ行く。ネットで見たが、観光客が減り、ウサギの餌不足でウサギがいなくなったというが、ほんと少なかったように思う。これまではどこもかしこもウサギという感じだったが、そんな気配もなく、探す方が大変な気がした。同じウサギに人が集中して、餌を与える。過剰になっている感もあり、観光地というところはやはり外部の人が頼りなんだなと感じるシーンであった。大久野島はもっと人が来る場所になると思うが、何か独占感があるのか、努力を感じない。何かもったいないなと思いながら、いつも思うことである。また行きたいと言うのだろう。
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