敗戦記―17番目の男―(1)

2015年12月に寄稿した第1話である。本文にもあるように、世界的コンサルタントの大前研一さんの著書、敗戦記のタイトルを使わせていただきながら、体験談を語ることにした。記録と記憶の物語である。

 

プロローグ

 

思うところあって、20年前の著書『大前研一敗戦記』を読んだ。東京都知事選挙、参議院選挙における敗北から自身の学んだ体験を綴った本である。

この中で印象的なシーンがある。選挙応援をしてくれた加山雄三が、敗北後に「今日は黙って俺のことを聞け」と言って、大前に語ったという言葉である。少し長いが引用する。

「俺は選挙中、お前には何も言わなかった。あんなに一生懸命やっているのを見ると何も言えなかった。だけどね、あんた滑稽だよ」

「あんたの政策は素晴らしい。僕なんかが聞くとその通りだと思う。でも、あんたはまったく『底辺』の人々の心に触れていない。おまえさんの言うことはやっぱり『底辺』が唸るもんじゃねえ。ごく一部の知識人がなるほどと思うだけだ。僕は吉本興業にも、どこのプロダクションにも属してこなかった。それで35年間歌を歌って食べてきた。その意味では、大衆が何を考えているのか、自分が掴まなかったら、すぐに客がこなくなる。だから、あんたより大衆が考えていることには敏感だ」

「あんたがなぜ滑稽なのかというとね、全部1人でやろうとしているからだ。明治維新を見なよ。

このまま行ったら日本は欧米列強の植民地になる、大変なことになるという共通認識があった。その危機感が皆にあって、皆がそれぞれの思いで、尊皇だ、いや攘夷だ、いや開国だと百家争鳴した。百家争鳴したけれど、そういう意見の違いを乗り越えて、このままいったら日本は植民地になるという危機意識をバネに、力をあわせてやりとげた。それを後の人が『明治維新』と呼んだだけだ。それと比較すると、大前さんは、全部自分で分析して、全部自分で答えを持ってて、何聞いてもわかってて、そして一人で興ってもいないのに、『平成維新』と言って、『平成維新です。みんなやりましょう』とやっている。それじゃあピエロだ。」

「『平成維新』なんて言葉はやめちまえ。基本的にはね、もっといい国作ろうと。日本というのはこんなもんじゃねえはずだと。我慢できないぞと、こういう言葉で言えば、一般の底辺の人にもわかりやすい。今の日本、家庭をもっと大切にしよう。もっといい国作ろう。それで、その結果として、皆が集まってきてやったものが、後の人が『あれは平成維新だったな』と言ってくれるんじゃない。一回呼びかけかた変えて、『平成維新』だなんだって答えがわかっているようなことを言うのをやめなよ」(大前研一『大前研一敗戦記』文芸春秋1995,100-101頁)

この言葉を聞いて、頭をバットで殴られるような衝撃があったという。日本全体や世界経済や、東京全体といった問題には一生懸命考えてきたけれど、下町の風景の中のおじちゃん、おばちゃんと世間話ができない、そんなことを思いながら、自分自身の改造が先であると悟ったそうだ。これを読んだ僕は同じように強い衝撃があった。僕も小さな町の選挙に出た人間だ。もう2年前の出来事である。結果は17人が立候補して、16人が当選。たった一人の落選者である。22票差であったが、完敗という絶望感であった。思い上がりもあったが、トップ当選で通るものだと思っていた。候補者で最年少であったし、自信もあった。僕は36歳で気は熟していたように思う。またこれからの時代を担うためには、若者が必要だ。僕はその条件に満たしていると思っていた。結果は敗北という現実であった。

そして、敗戦から2年後、2015年11月に町長選挙に伴う町議会補欠選挙があった。僕は出馬しなかった。いろいろ理由もあるが、結局のところ、政治家になる意義を見出すことが今の僕にはできなかったということだろうと思う。これはおいおい語ることとする。

閑話休題。今回、何か書こうという衝動をあった。政治の世界に飛び込んだ体験を、振り返ってみようと思ったのは、「大前研一敗戦記」から学ぶべきことと、重なり合うところが自分に多かった。きっかけは読書に違いないが、やはりどこかで僕の声を聞いてほしいということなのだろうと思う。誰しもに選挙に出る経験はしないだろう。

大前研一のように、「初めての敗北」ではなく、僕は負け続けている人生だ。大前と同じように、僕も政策ばかりをずっと考えていた。10年、20年、30年と長いスパンで政治家は語らないといけない。そして強いビジョンと熱意を胸に社会に活力ある旗を立てる。これからは「個」の時代であり、社会を「個」の視点で内包しつつ、全体を俯瞰する視点が必要である。だから体験を記録として、綴ることで何か僕自身も感じるのではないか。僕の声は自分自身への声かもしれない。それでも何かを探してみる。さて僕の出馬した海田町は約3万人の人口である。日本にはその規模の市町村は多く存在している。だからこそ、終の住処となるような街づくりをする。このことはきっと自分の住む町にとどまらず、日本のあちこちできっと役立つに違いない。3世代が住みたいと思える町を作っていく。自立した個の視点から政治家になる。自分が立ち上がることで評論家ではない、主体的人間として訴えていく。それは世の中が変わっていく大きな期待を持って・・・。結局のところ、一人よがりだった。そして民意は受け入れられなかった。それでもこれからも同じ場所で生きていくわけだ。 20年前の大前の体験の言葉が僕の心に強く突き刺さっている。敗北の教訓から何を学び、これからに活かすのか、どう生きていくのか、正直に向き合ってみたいと思う。

 

  1. 政治家を目指す

 

10年前、29歳の僕は社会人大学院の門を叩いた。20代最後の僕は、今しかもう動くときはないかもしれないと危機感を抱いていた。動くしかないというより、自分が変わるチャンスはないかもしれないと思っていた。大学院に行ったからと言って、そう何かが大きく変わるわけではないけれど、今の日常に変化を持たせて生きていくという選択が必要であった。

当時、僕の取り巻く状況は小規模な会社、事業者の経営者とのかかわりが多かった。会社でいえば、お父ちゃん、社長、お母ちゃん専務のような家族経営のところで、大企業のような横綱相撲をとれるようなところではない、零細である。これは今でも変わりないが、そのかかわりの中で、弱者には弱者の戦略がある。そして個の時代にどんどん向かっていくだろうという目論見はあった。個の視点で社会全体を俯瞰し、そこに旗を立て生きる。漠然とそんなことは思っていた。この段階では政治家という選択は思っていなかった。何かこうした零細経営者にも、明るいビジョンは見えてこないだろうかと思っていた。もちろん当時も骨太に成功している経営者もいたが、大方はそうではなかった。

僕の関心はまず個の視点からの社会の制度設計に着目し、今ある中小企業の概念や定義に疑問を持った。小規模事業者の範囲を創設し、産業育成と税制のバランスを考えるといったものだった。

やがて実務で農業者と触れ合うことが多くなった。自らが農作物を育て売っていかないと集落が守れないという危機感、担い手の育成、耕作放棄地の増加など、新聞で読むような農業問題を抱えていた。

いつも個人がどのように社会の真ん中に位置づけられ、可能性を発揮できるのかということを問題意識に思っていたように思う。何故か大企業の方々は縁がなかった。はっきり言えば、大企業の人は僕にかかわる必要はないし、僕にとっても何ら関係のない存在であったと思う。

そんな中、企業経営の中の個人を支援していく、特に小規模事業者の、とりわけ農業者というところに関心が持っていた。そして経済人としての「僕」よりも、制度設計、政策を構築しくことに関心が強くなっていった。会計事務所に勤める僕は、他人の税金を計算する。しかし、政治家は税金を運用する。その運用こそ僕の社会的使命である。そう思っていた。社会の制度設計をしていく、政策を打ち出す、個人が幸せになっていく。社会の中の個人、「僕」も存在意義ができる。

少しずつ僕がそういう意識が芽生え始めていた。30歳になった僕である。こうして社会大学院でMBAをとって、ちょっとだけの自信を胸に、政策学校一新塾に門を叩いた。政治家になる準備である。大前研一が創設した一新塾であるが、敗戦記で読む壮絶な戦いより、自分自身が一皮むけることに、大いなる期待をしていたのである。

とにかく走る、これは社会人大学院の同窓が、働きながら自身のキャリアアップや会社経営に役立てていこうした頑張りを共有し、格闘した学生生活があったからこそ僕も加速して頑張ろうと思えたのである。それだけみんなそれぞれの熱意があったのだ。

僕はいつしか経済人から政治家へなる。それも国会議員ではない、地方議員として生きる。不安もたくさんあった。でもそうなりたいと思い始めたのが、政治家へ進むきっかけであった。

(続く)

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